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Alexander Graham Bell(2) アレクサンダー・グラハム・ベル


Alexander Graham Bell アレクサンダー・グラハム・ベル
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
ベルは、ボストンへ帰り、電気技師のトマス・ワトソンの助けを得た。
2人は、その後の数か月間、一緒に働き、ベルが持っていない電気に関する知識をワトソンが補った。
しかし、ベルに必要なのは、それだけではなかった。
じきに、彼は資金面での援助も必要とした。
彼の関心はすべて発明に注がれ、彼の唯一の収入源である教師の職をなおざりにしていたのだ。
だが幸運なことに、耳の不自由な子どもを持つボストンに住む2人の金持ちが、感謝の意味で援助をした。
これで、2人は研究を続けることができた。
1875年の春から夏にかけ、ベルとワトソンは昼も夜も仕事を続けた。
彼らは、ベルが下宿しており、実験室として使っていた暑くてほこりっぽい部屋で、研究を行った。
ベルが図面を描くと、ワトソンがそれを作った。
彼らは、家の端から端まで電線をつり、両端に器械を取り付けた。
2人でこの器械に向かって叫んだのだが、お互いに聞こえるのは、壁を通してか、廊下を伝わってくる声だけで、器械からは何も聞こえなかった。
彼らは忍耐強く器械を調整したり、古いのを捨てて次のに取りかかったりした。
この家のほかの住民も、同じように忍耐強く電線が自分の部屋を横断するのを許し、むなしい叫び声にも快く耐えてくれた。
ベルとワトソンは、夏、秋、冬と仕事を続けた。
そして、1876年3月10日-成功したのである。
最初の電話の会話は、助けを求める声だった。
ベルとワトソンは、実験を始めようと、いつものように幾部屋か離れて位置についていた。
ベルは、装置の部品を硫酸に浸していたのだが、間違ってそれを足にこぼしてしまった。
痛みのあまり、彼は助けを求めて叫んだ。
「ワトソンさん来てくれ。頼むよ!」
ワトソンは、部屋で彼の声を聞いた。
しかし今度は、ベルの声は壁を通して聞こえたのではなかった。
ワトソンの受話器につながっている電線を通ってきたのだった。
これが、最初に電話を通して話された文だったのだ。
その夜、ベルは、母への手紙で自分の気持ちを述べている。「きょうは、私にとってすばらしい日です。
とうとう大きな問題を解決できたと思います。電信線が水道やガスのように、家々にひかれ、家を離れずに友だちと話ができる日が来るのです。」
人々がベルの電話を、講演で展示するおもちゃ同然なものとして認めるまでには何年かを要した。
しかしベルとワトソンは、電話の改良を続け、より長い距離でも実用的であることを見せた。
1878年には、200マイル離れているニューヨーク・ボストン間で、最初の長距離電話をかけた。
その後、ボストンの新聞は、次のように報道した。「この発見を使用すると、2つの離れた地点間の電気による通信方法を、全く変えることになるだろう」
新聞の記事は、やがて真実となった。
3か月後に、ベル電話会社が正式に設立された。
電話の発明から4年後の1880年までには、アメリカでの電話台数は4万8千になった。1910年までには700万、そして1922年までには、その3倍になっていた。
しかし、1922年8月2日、これらの電話は、すべて黙ってしまった。
アレクサンダー・グラハム・ベルが、75歳で死んだのだ。
彼の葬儀の間、北アメリカのベル電話会社の電話は、すべて彼に敬意を表して切られたのだった。
今日、私たちが上を向いて、私たちのことばをある地点からある地点へと運ぶ細い電話線を見ると、ベルが歌声にたとえたというコミュニケーションの音が聞こえるようだ。「この歌声は止まることがない。」と彼は言った。「なぜなら、これは生活を歌っているし、生活は決して止まることがないからである。
あの上にある銅線は、世界中の局から局へと、誕生と死、失敗と成功のニュースを運んでいる。」
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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