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George Washington Carver(2) ジョージ・ワシントン・カーバー


George Washington Carver ジョージ・ワシントン・カーバー
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
カーバーは、このアイオワ州立大学には、それほど長くいなかった。
黒人で優秀な教育者であるブッカー・T・ワシントンが、若いカーバーの科学的能力を耳にした。
新しく創立された、南部アラバマ州の黒人のための大学、タスキーギ・インスティテュートの学長であるワシントンは、カーバーをタスキーギへ呼んだ。
彼は、カーバーに農学部を引き受けてくれるよう頼んだ。
カーバーは、それを承諾した。
32歳で彼は、一生の住まいとなるタスキーギへ行った。
カーバーは到着すると、大学が貧しく設備が乏しいことに気づいた。
そのうえ、周りの農業状態は、それ以上にひどかった。
その地方一帯の経済は、たった一つの作物、綿に頼っていた。
土質は、相次ぐ綿の栽培で、ほとんどだめになっていた。
黒人たちの問では、至る所に貧困と絶望が見られた。
多くの白人の状態も、たいしてよくはなかった。
家畜を育てたり、食用作物を作っている者はほとんどいなかった。
カーバーの目標は、両人種の農業習慣を変えることだった。なぜなら、地方全体の経済を向上させなければ、黒人の状態をよくすることはできない、と彼は考えたからである。
彼は忍耐強く、農夫への援助を始めた。
1897年、大学は農業試験研究所を作り、いくらかの土地を実験農場として使うことになった。
ここでカーバーは、やせた土地で植物を育てる実験を始めた。
最初に、沼の土、枯れ葉など、そのほか有機物で速く腐るものから自然で安い肥料を開発した。
それを使って、トマト、さつまいも、ピーナッツ、大豆など、綿ほど土を痛めない植物を植えた。
彼は、農夫たちに、彼の実験を見にくるようにと勧めた。
そして綿に頼らなくても、いろいろな作物を作って利益をあげることが、可能であると教えた。
カーバーの努力は、しだいに成果を見せ始めた。
しかしタスキーギまで行って、これらの作物や方法がうまくいっているのを見ることができる人々は、多くはなかった。
そこでカーバーは、学校の方が農家へ出向かなければいけないと考えた。
彼は、車がついた農業試験所を作った。つまり、荷馬車で農業地帯を回り、新しい作物の作り方、家政学、よりよい食生活、土の管理などの知識を農民に与えた。
この移動農業サービスは、たいへん成功した。
この方法は素早く広まり、ほかの州でも取り入れられることとなった。
彼の試験所で、わずかな道具を使い、カーバーは、いろいろな植物利用方法を発見した。
彼は、こういった仕事をして、傑出した農化学者として世界的な名声を得たのだ。
彼は綿から舗装用ブロック、建築板、ロープ、紙などまるで違ったものを開発した。
ピーナッツからは、チーズ、石けんを含む300以上の製品を作り出した。
さつまいもからは、118種の物を作り、その中には、キャンディー、くつ墨もある。
またカーバーは、どんな廃物でも、何か有益なものに変えることができるようだった。
彼は、木くずから人工大理石を、古い布袋とヒモで壁かけを、植物の茎から敷き物を、そしてコーヒーの出しがらやオレンジの皮で水彩絵の具を作った。
しかし、彼が南部の経済へもたらした一番の貢献は、ピーナッツだった。
カーバーがピーナッツの可能性を紹介するまで、その地方では、ほとんど栽培されていなかった。
1921年までには、換金作物として綿とほとんど同等になった。
「農夫を助けるものは、皆を助けるものになる。」と彼は言った。
カーバーは、一生の間、大学、政府、科学協会などから多くの名誉の表彰を受けた。
だが彼が一番喜んだのは、この貧しい黒人学生を何年も前に受け入れてくれたシンプソン大学から1928年に受けた理学博士号だった。
時には白人に無視されたこともあったが、カーバーは寛大な人だった。
彼が人種差別を話題にすることは、ほとんどなかった。
控え目で質素を好んだ彼は、最小限の必需品だけで暮らした。
彼は、物質的な成功には興味がなかった。
彼がタスキーギで暮らした長い期間には、一度も給料の値上げを受け入れず、彼の発見に特許をとることもほとんどなかった。
彼は、それらが人々に、ただで提供されるべきだと信じていたのだ。
1938年に、カーバーは重い病気にかかった。
しだいに回復し、実験も続けたが、以前の元気を取りもどすことはできなかった。
1943年1月、彼は79歳で世を去り、タスキーギに葬られた。
アメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトは、カーバーに敬意を表して言った。「全人類は、彼の発見から恩恵を受けてきた。
ジョージ・ワシントン・カーバーが、若いころの困難の中から成し遂げたことは、いつの時代も、世界の若者に自信を奪い起こさせるような例となるだろう。」
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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