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John Steinbeck(2) ジョン・スタインベック


John Steinbeck ジョン・スタインベック
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
その小説というのは、1937年に出版された『はつかねずみと人間について』でした。
この小説は、家がなくてあちらこちらを渡り歩いている2人の農場作業員の、微妙に感情の張りつめた感じの小説です。
スタインベックは最初この物語を舞台劇として書き始めたのですが、途中で気が変わって小説に書き上げたのでした。
これが小説として成功すると、彼はこれを舞台劇に書き改めました。
スタインベックは、『はつかねずみと人間について』で1937年度のニューヨーク演劇批評家賞を勝ち得ましたが、これは彼が「純粋にアメリカ人の生活に根ざしたテーマを取り扱ったこと」をたたえる意味で与えられたものでした。
この作品は映画にもなって人気を呼びましたので、スタインベックは全米にその名を知られるようになりました。
2年後、彼の次の本である『怒りのぶどう』は、スタインベックの名声を全世界に打ちたてました。
これは彼の傑作で、貧しい農民たちがほこりっぽいオクラホマの平原をあとにして、肥沃なカリフォルニアの峡谷まで旅をする模様を描いた、巨大な、怒りの小説です。
この小説は、1930年代の経済大恐慌の風潮と悲劇をとらえたものでしたので、至る所で土地を追われた人々が逃亡するという、どこにでもある物語となったのでした。
スタインベックは強固な社会的良心を備えた人間でしたので、ペンを取って、アメリカの貧しい労働者たちの悲惨な生活や待遇に抗議したのです。
彼が『怒りのぶどう』の中で示した彼自身の怒りは、国に貧しく家のない人たちの状態を知らせるのにおおいに貢献しました。
1940年、彼は『怒りのぶどう』で年度の最優秀小説として、ピュリツアー賞を受けました。
この小説は映画にもなって成功を収めましたが、スタインベック個人にとっては、有名人として種々の問題に悩まされることになったのです。
スタインベックは自分のプライバシーを守ろうとして、できるだけ文筆家としての公的生活を避けるように努めました。
彼は簡素で静かな生活を好んでいましたので、文学関係のパーティーに出席したり、講演に招かれたり、署名をさせられたりすることが大きらいでした。
彼は、農民とか果実採集者とか工場で働く労働者といった、ごく普通の人たちと一緒にいる時が一番くつろいだ気分になるのです。
彼は大抵の場合、ビジネス・スーツよりは、セーターにだぶだぶのズボン、そして古びたくつといったいでたちを好みました。
第二次世界大戦が始まると、スタインベックは『ニューヨーク・へラルド・トリビューン』紙の戦争特派員として、イングランド、北アフリカ、イタリア、などに出向きました。
度重なる長期の旅行で、彼の家庭生活は崩壊し、彼の妻は1942年に離婚しました。
彼は翌年グウィンドレン・コンガーと再婚し、彼女はトムとジョンの2人の子どもをもうけました。
この結婚生活は1948年まで続きました。
その後2年たって、彼は3人目の妻としてイレイン・スコットと結ばれました。
スタインベックの戦後の最初の小説『罐詰横丁』では、彼の生まれ故郷のカリフォルニアに舞台がもどってきました。
これに続いて1947年に『気ままなバス』が出版されました。
これらの小説は、どちらもあまり成功しませんでしたので、スタインベックは、映画台本や舞台劇の執筆のほうに関心を寄せるようになりました。
やがて、彼は1951年には、『怒りのぶどう』につぐ野心作『エデンの東』を出版しました。
彼はこの本を、今までした仕事の中で最高の傑作であると自認しています。
彼は言いました。「私はもう50歳です。
もし『エデンの東』がよくないというのであれば、私は生涯をむだに送ったことになるのです。」
彼はたいへんな自信を持っていたのです。
『エデンの東』は、おそらく『怒りのぶどう』ほどの傑作ではなかったにせよ、優れた小説であったことは事実です。
この小説は、たちまちベスト・セラーになりました。
それは、カルフォルニアに新生活を見いだす2つの家族の人々の、南北戦争から第一次大戦にわたる長い歴史を描いた長編小説です。
彼が書いたほかの有名な小説と同様、この小説も映画になって人気を博しました。
1950年代になっても、スタインベックは著述を続けました。
もう一つの小説『甘い木曜日』は、舞台用のミュージカル・コメディーになったものです。
しかし、この時期の彼の作品は、批評家たちからは彼の傑作には数えられていませんし、スタインベックはもう作家として最盛期を過ぎたのだ、と言う人たちもいました。
1961年に、スタインベックは『われらが不満の冬』を出版してカムバックしました。
彼はこの物語の中で、ニューイングランドの名門の出である一人の男が、よりどころのない不安のために自らの理想主義にそむく話を物語っています。
この本は多くの批評家の称賛を受け、中でもスウェーデン・アカデミーの審査員に強い感銘を与えたため、スタインベックは、1962年に世界的に有名なノーベル文学賞を受けました。
この同じ年に、スタインベックは『チャーリーとの旅行』を出版しましたが、これは、彼が自分の犬を連れてアメリカ横断旅行をした時のことを書いたものです。
これは、今までに書かれたアメリカの描写の中でも、最高の部類に属します。
彼はこの時の旅行について、こう言っています。「私はアメリカ人というものが、一つの実体として存在しているということ、すなわち、彼らは州、社会的・経済的な立場、教育、宗教、政治上の信条、などの違いはあっても、アメリカ人という特徴を備えているということを、実感として理解するようになった。」
しかし、やがてアメリカおよびアメリカ人というものの定義を試みようとしたすべての観察者たちと同様、彼は「このアメリカのイメージを調べれば調べるほど、その実体がわからなくなっていった。」と打ち明けています。
スタインベックは1966年の初頭に、ニューヨークの新聞『ニューズデー』の戦争特派員として、南ベトナムに旅行しました。
スタインベックは、アメリカにもどると、ニューヨーク市に近いロング・アイランドにあるサグ・ハーバーの自宅で、著述を続けました。
しかし、彼は1968年5月に健康がすぐれなくなると、妻とともにニューヨークのアパートに移り住みました。
そして、彼はここで、1968年12月21日に心臓麻痺で倒れ、66歳で一生を閉じたのです。
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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