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Martin Luther King(2) マーチン・ルーサー・キング


Martin Luther King マーチン・ルーサー・キング
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
1955年12月1日の夕方、モンゴメリー市内で1台のバスが交差点で止まり、キング博士の教会の会員の一人であったローサ・パークスという黒人洋裁師がそのバスに乗り込んで席につきました。
そのうち、バスの乗客がさらに多くなると、黒人たちは白人に席を譲るように命じられました。
ただひとりの例外を除いて、すべての黒人たちは運転手の命令に従いました。
運転手がパークス夫人に立つように言いましたが、彼女は拒みました。
「あの時どうして動こうとしなかったのか、私は今もってわからないのです。」彼女は後日こう話しています。
「なんのたくらみや計画もあったわけではありません。私は、ただ買い物帰りで疲れていただけなのです。私は足が痛かったのです。」
ローサ・パークスは法律に従わなかったかどで逮捕され、罰金10ドルを支払うことを強要されました。
この出来事は黒人社会を怒らせました。
モンゴメリー市のバスは一夜にして、黒人が耐え忍ばなくてはならなかったすべての屈辱と、権利侵害と、不平等のシンボルと化しました。
キング博士を初め、ほかの地域指導者たちは、法に挑戦する絶好の機会だと考えました。
26歳のキングは、ガンジーの理念に従って、不公平な法律に対する非暴力で消極的抵抗が、やがてその廃止に追い込むであろう、と主張しました。
彼は自分の教会を抗議活動のセンターに使って、モンゴメリーの黒人に、バスに乗らないようにしよう、と強く呼びかけました。
モンゴメリーの黒人たちは、苦難と恐怖に満ちた382日間、バスに乗ることを拒み、各人がキング博士とともに自由への道を歩みました。
やがて、ついに最高裁判所によって、今までの法律が憲法違反であるとの判断が明らかにされました。
それは勝利の瞬間でした。
キングは、全国的に重要な黒人指導者となったのです。
彼は彼の唱えた非暴力的なやり方で成功したばかりでなく、その後、アメリカ史上最も重要な社会改革の一つとなった黒人運動に対して、新たな激励を与えることになったのです。
これまでの道は、今や幅広いハイウェーとなりました。
黒人であると白人であるとを問わず、男も女も、キングに同調して自由への行進を続け、黒人に対してすべての公民権を与えよ、と要求しました。
800の都市でデモが行われました。
キング博士は、1年間で70万マイル以上旅行し、200回以上講演をして、そのつど暴力を用いずに平等と友愛を実現することを要求しました。
1959年、キングはモンゴメリーの彼の教会を去り、ジョージア州のアトランタにもどりました。彼はここで、南部キリスト教信徒リーダーシップ会議を組織しましたが、これはたちまちにして、国中で最も重要な公民権運動の組織に発展していきました。
この組織の仕事は、黒人のみならず、多くの白人の支持者たちによって行われたのですが、この仕事のおかげで次から次へと、不当で不公平な法律が改正されていきました。
しかし、自由への道はなおも続きます。
1963年の夏には、マーチン・ルーサー・キングをワシントンD.C.まで連れてきました。
人種、信仰、信条、年齢の異なる25万の人たちが全国からやってきて、100年以上も前に、アメリカの黒人たちを自由への道につかせることに貢献した、かの愛すべき大統領の記念館であるリンカーン記念館の前に集まりました。
その年の夏も終わりに近いころ、マーチン・ルーサー・キングは、大群衆に向かって、次のように話しかけました。「私は今でも夢を抱いています。
アメリカの理想に深く根を下ろした夢なのです。
私はいつの日にかこの国が立ち上がり、この国が真の意味で信条とするところを実現するであろうという夢を抱いています。その信条というのは、すべての人間は平等につくられているという事実を自明のことと考える、ということです。
私はいつかは、かつての奴隷の息子たちと、かつての奴隷所有者の息子たちとが、一つの友愛のテーブルにつくことができる日がやってくるだろう、という夢を抱いているのです。
私は私の4人の子どもたちが、やがては、彼らの皮膚の色ではなく、彼らの人間としての内容によって判断される日がやってくるだろう、という夢を持っています。
私はきょうも夢を忘れません。」
行進に参加した人々は、新たな決意をもって、それぞれの郷里へもどっていきました。
彼らは、そのころ議会で検討が加えられていた新たな公民権法案に対して、支持を表明しようとして首都へやってきていたのです。
この法案は翌年法律として実施され、バス、ホテル、そのほかすべての公共施設における差別は撤廃されました。
1964年、マーチン・ルーサー・キングはノーベル平和賞を授与されました。
その時彼はまだ35歳で、この賞の受賞者としてはそれまでの最年少者であり、黒人としては3人目、アメリカ人としては12人目の受賞でした。
翌年、キング博士はアラバマにもどって、黒人のために選挙の登録と投票の権利を与えることを要求して、セルマの町からモンゴメリーへ向かって行進しました。
2万5千の人々がこの行進に参加しましたが、この行進は5日間で54マイルを歩きました。
行進の人々がモンゴメリーに到着すると、キング博士は州議事堂の建物の前の台に立って、彼らに次のように話しました。「解散後も今まで以上に、苦難の道を歩み、非暴力に撤しようではありませんか。」
この行進がもたらした成果として、議会では投票権法が通過し、マーチン・ルーサー・キングに新たな勝利をもたらしました。
そして、これが彼にとっての最後の勝利になるのです。
1968年の春、キング博士は次のワシントンD.C.への大規模な行進の準備にとりかかりました。その行進は貧困者のためのものでした。
彼は多くの人々を首都へ連れてきて、よりよい仕事、よりよい低額住宅、よりよい福祉計画、などを議会に要求しようという計画を立てたのです。
この行進の準備のために、テネシー州のメンフィスで、そこの人々に参加を呼びかけようと思い、メンフィスへ行きました。
彼がメンフィスへ行ったもう一つの目的は、賃上げのためのストライキをしている市の労働者を支援するためでした。
4月4日、彼は現地の指導者たちとの会合で、長時間にわたって忙殺された一日が終わって、夕食前のひとときに新鮮な空気を吸おうとして、彼のホテルの部屋の外へ出ました。
数秒後、1人の暗殺者の撃った弾が、彼の首に命中しました。
マーチン・ルーサー・キングは、1時間とたたないうちに息を引き取りました。
39年にわたって歩みつづけた、彼の自由への道の行進はついに終わりを告げたのです。
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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