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The Adventures of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの冒険

A Study In Scarlet 緋色の研究 第一部 第三章 2

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
その一分後、我々はハンソム馬車に乗り込んで、ブリクストン通りへ急いだ。
 霧が深く、視界の悪い朝だった。屋根の上に薄暗い面紗がかかり、下の通りの汚さを鏡に映すがごとく見えた。
同居人は気分も上々で、クレモナのことや、ストラディヴァリウスとアマーティの違いを滔々と語る。
かたや私は黙り込んでいた。空は曇り、手がける事件は憂鬱、私とてふさぎ込まずにはいられなかった。
「頭の中に、この事件のことはなしか。」と私は切り出し、ようやくホームズの音楽講義の腰を折った。
「まだデータがない。」と同居人。
「証拠を揃えず推理しようなど、致命的な誤りだ。判断に偏りが出る。」
「すぐにでも手に入るさ。」と返すと、私は通りを指差して、「ほら、ブリクストン通りだ。あれが問題の家だ。きっとそうだ。」
「いかにも。御者、ここで結構!」
まだ一〇〇ヤードはあるというのに同居人は下りると言い張り、残りは徒歩で行くことになった。
 ローリストン・ガーデンズ三番地は禍々しく凄みがあった。
通りから路地に入った所にある四つの家のうちの一つで、二つは人が住み、残りの二つは空き家だった。
その空き家の窓は三段に並び、黒々と開いた様はどんよりと虚ろであった。せめてもの救いは、あちこちの窓ガラスに『貸家』の札が、水晶体を濁すかのように貼られていたことだ。
家と道の間にはそれぞれ小さな庭があり、しなびた草がそこかしこに生え散らかっていた。庭を横切って狭い通路があった。黄色がかっていて、おそらく粘土と砂利を混ぜて作ったのだろう。
夜通しで降った雨のため、水たまりだらけだった。
庭を仕切る塀は高さ三フィートで煉瓦造り、上に横木がついていて、屈強な巡査がもたれかかっていた。その周りで幾人かの野次馬が首を伸ばして目を凝らし、中の様子を垣間見ようとしていたのだが、無理そうだった。
 私の頭のなかでは、シャーロック・ホームズはすぐさま家へ飛び込み、事件の捜査に取りかかるはずだった。
しかし本人の考えとはかけ離れていたようだ。
事件だというのに、ふらふらと、気取ったとさえ思える調子で通路を行きつ戻りつ、ただ地面を見、空を仰ぎ、向かいの家から壁沿いまでにらみつけていく。
その方面を調べつくすと、今度は目を地面に釘付けにしつつ、通路、というより通路脇の草沿いをゆっくり歩いていった。
二度立ち止まり、そのうち一度はにんまりとした顔が見え、満足げに何事か呟くのが聞こえた。
ぬかるんだ土の上に足跡がたくさんありはしたが、なにぶん警官が出入りした後だ。どうして読み取れるものがあるとこの男が思ったのか、私には知る由もなかった。
ただ同居人の頭の回転の速さは重々承知であったから、私ごときにはわからぬことをいくつも見つけたに違いない。
 家の戸口で、我々はひとりの男に出会った。長身で色白、髪は亜麻色、手に手帳を持っていて、こちらへ駆け寄ってくるや、友人の手を握って強く振り、言葉を並べ立てる。
「ご足労を。すべてそのままにしておきました。」
「あそこ以外は。」と友人は男の言葉をつなぎ、通路を指し示した。
「水牛の群が通り過ぎても、あれほど汚くはならない。
ならば当然、捜査はついているんだろうね、グレグソン。こうなる前に。」
 すると刑事は言い訳じみた調子で、「吾輩、中の仕事にかかりっきりで。
同僚のレストレードですな、ここは。
ここの担当をと、任せておいたので。」
 ホームズは私に目を流し、意地悪く眉を上げて見せた。
「現場に警部とレストレード、両者揃い踏み。第三者の出る幕などなさそうだ。」
 グレグソンは自慢げに手をもみ、
「打てる手はすべて打ちましたからな。だが変わった事件ですから、お好きかと思いまして。」
「ここへは、馬車ではあるまいね。」とシャーロック・ホームズ。
「ええ。」
「レストレードも?」
「ええ。」
「では部屋を見に行くとしよう。」
突拍子もない質問をした後、同居人はつかつかと家の中へ入っていった。グレグソンは顔に驚きを浮かべながらも、ついていった。
 むき出しの板、埃まみれの短い廊下は、台所と洗い場に続いていた。
途中に右と左、扉が二つ開いたままになっていた。
片側は見たところ何週間も閉じられていたようだった。
もう片側は食堂に続いていて、その食堂が謎の事件の現場だった。
ホームズが踏み込んだので、私もあとに続いた。死の存在に揺らぐ心を抑えながら。
 四角い大部屋だった。家具がないせいか、ずいぶん広く感じられる。
壁紙はけばけばしく、大きなカビが所々に見られた。またあちこちで壁紙は裂け、だらんと剥がれていたため、下の黄色い壁土があらわになっていた。
扉の反対側にはこれ見よがしに暖炉があり、炉棚は白い模造大理石で作られていて、
隅には短くなった赤いロウソクが立ててあった。
窓はひとつしかなく汚れていたため、部屋中がぼんやりと薄暗く、埃にまみれているせいか、何もかもがいっそうくすんでいるように思われた。
 以上の描写は、みな後で見たものだ。
そのときの私の注意の先は、部屋の中央、床の上にのびたひとりの、動きのない、ぞっとする人影にあった。生気を失った目が、色のない天井を見つめていた。
厚ぼったい黒ラシャのフロック・コートとチョッキ、明るい色のズボンに身を包み、清潔なカラーとカフスがついていた。
丁寧に整えられた山高帽が男のそばの床に落ちている。
両手は拳を握り、腕は外にだらりと投げ出され、踵と踵がくっついている。
死の間際に相当苦しんだのであろう。硬直した顔には恐怖の相が現れており、その憎悪に充ち満ちた表情は、本当に人間のものかと疑わずにはいられなかった。
狭い額、低い鼻、尖ったあごが一緒になったような、殺伐とした顔のゆがみよう、そしてもがき苦しんだ不自然な姿勢が、死体を、変な表現だが、まるで猿のごとく思わせた。
私も様々な死に方を見てきたが、ロンドン郊外の大動脈にほど近い、暗いすすけた部屋の中のこの男ほど、背筋の凍る死に様はなかった。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo
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