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The Adventures of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの冒険

A Study In Scarlet 緋色の研究 第一部 第五章 3

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
 呼びかけると、我々が想像していた凶悪犯ではなく、しわくちゃの老婆がよたよたと入ってきた。
急に明るいところへ出たせいか、まぶしそうにしたが、我々に軽く会釈をした。老婆はかすみ目をしばたたいて我々を見ると、震う荒れた手で懐をまさぐりながら立っていた。
私が同居人の方をうかがうと、不満げな顔をしていたので、私の方だけでも平静を繕おうとつとめた。
 老婆は夕刊を取りだし、例の広告を指し示した。
「これ、これでわたしゃ来たんですがね、親切なお兄さん方。」と、また会釈をし、「ブリクストン通りの金の結婚指輪。
こりゃわたしの娘、サリィのもので。娘は、結婚してちょうど一年で、夫はユニオン汽船の給仕をしとっての、家に帰ってきて、娘が指輪をしとらんことに気がついたら、何を言うかわかったもんじゃなし、いくらあれでも気が短いもんでね、酒を呑んどりゃもう特に。
聞いて下され、娘は昨晩、あのサーカスに行っておりましてのぅ――」
「指輪は、これですかな?」と私。
「ありがたや、ありがたや。」と老婆は大きな声を出す。「サリィも今夜は機嫌ようなろうて。この指輪で。」
「で、あなたのご住所は?」と私は鉛筆を取った。
「ハウンズディッチ、ダンカン街一三。ほんにくたびれたわい。」
「ハウンズディッチからどこのサーカスへ行っても、ブリクストン通りは通らない。」とシャーロック・ホームズが鋭く指摘した。
 老婆はくるりと首を動かし、同居人を充血した目でにらみつけた。
「このお兄さんが聞いたのはわたしの住所じゃ。
サリィの方はペッカム、メイフィールド・プレイス三の下宿におります。」
「あなたのお名前は――?」
「わたしゃソーヤと――娘はデニス、トム・デニムと結婚したもんで――かしこうて、ちゃんとした若者での、もっとも、それも海にいる間だけのことで、会社での評判はよろしいのに、陸おかに上がれば、女やら酒屋やらで――」
「お探しの指輪です、ソーヤさん。」私は同居人の合図に従って、老婆の話を打ち切った。「正真正銘、娘さんのものですね。元の持ち主に返せて、私も嬉しいですよ。」
 老婆はもごもごと祝福と感謝の言葉を何度もつぶやきながら、指輪を懐にしまい入れ、階段をよたよたと降りていった。
シャーロック・ホームズは老婆が退出した途端、勢いよく立ち上がり、自室へ飛び込んだ。
ものの数秒で、アルスターとスカーフにくるまれ、戻ってきた。
「追う。」と急ぎ調子の同居人。「あの老婆は共犯者に相違ない。男の居場所を突き止められるやも。起きて待っててくれたまえ。」
玄関の戸が音を立てて客を送り出すやいなや、ホームズは階段を駆け下りていった。
窓越しに見ると、老婆は向かいの通りをとろとろと歩いている。追跡者は老婆の数歩後ろを離れずつけていた。
「彼の考えそのものが間違いなのか、それとも彼は今、謎の核心へと導かれているのだろうか。」私はひとり考えた。
同居人の寝ないで待てという言葉も必要なかった。この冒険の結末を知るまでは、眠ろうとも眠れるはずがあるまい。
 同居人の出発は九時近く。
いつまでかかるのか思いもよらなかったが、私はそぞろにパイプを吹かし、アンリ・ミュルジェルの『放縦に生く』を飛ばし読みしていた。
十時過ぎ、女中が寝室へあわただしく向かう足音がした。
十一時、同じく寝室へ向かう下宿の女主人のしっかりとした足取りが、部屋の前を通り過ぎていった。
部屋に入るなり見せたその顔に、失敗、と書いてあった。
心のなかではおかしさと悔しさがせめぎ合っているようだったが、ついに前者が勝利を収め、同居人は出し抜けに大きく笑い出した。
「スコットランド・ヤードのやつらに知られたくないものだ。」と椅子に腰を下ろし、「僕がいつもからかっている仕返しとばかりに、いつまでも言い続けかねない。
今はひとまず笑っておこう。長い目で見ればまだ五分だ。」
「いったい何が?」
「うむ、僕は失敗談でも気にせず話す人間だからね。
あの犯人の手先は、少し歩くと足を引きずり始め、捻挫した素振りを見せた。
まもなく立ち止まり、走っている四輪馬車を声高に呼んだ。
僕は老婆が行き先を伝えるのを聞こうと距離を詰めたが、それは単なる杞憂に過ぎず、通りの向かいまで聞こえるほどの声で、『ハウンズディッチ、ダンカン街一三へ行っとくれ!』と言った。
ひょっとすると本当に、と思い始めて、しっかり乗り込んだのを見届けてから僕は馬車の背の上部に飛び乗った。
探偵なら誰でも長けておかねばならぬ技術だ。
で、馬車は揺れながら進み、目的地へ着くまで、手綱が引かれて速度が弱まることが一度もなかった。
戸口にさしかかる前に僕は飛び降り、何気なくそぞろに通りをうろつきながら近づいていった。
目の前で馬車が止まり、御者が降り、扉を開け、客が出てくるのを待っていた。
が、誰も出てこない。
そばへ来たとき、御者はわけがわからないという風に空の馬車を引っかき回して、何とも巧みに罵詈雑言を操ってまくし立てていたよ。
乗客の影も形もなく、いつまで経っても運賃はもらえそうになかった。
そこで御者を連れて一三番を訪ねてみると、そこで住んでいたのはごく普通の壁貼り屋で、名をケジックといい、ソーヤもデニスもどこへやらだ。」
「本気かね?」と私は驚きの声を上げる。「またまた、よぼよぼの老婆が走行中の馬車から飛び降りただなんて。君や御者に目撃されることなくにだよ?」
 するとシャーロック・ホームズは苦々しげに、「おのれ、あの老婆! 
やられた我々の方こそ老婆並みだ。
間違いない、あれは若い男だ、しかも身体能力に優れ、名優ときている。
あの変装は真似できない。
尾行されていると知って、きっと僕をまいて逃げようとあんなことを。
なるほど、我々の追うあの男、考えていたように一人ではない、危険をもいとわぬ仲間がついている。
さあ博士、疲労が目に見えている。言うことを聞いて、部屋に下がりたまえ。」
 その通りで、私は疲労困憊の体だった。聞き入れて、
ホームズをくすぶり立つ炉辺の椅子に残して下がった。なかなか眠れずにいると、ヴァイオリンの憂鬱で悲しげな低い音色が聞こえてくる。奇妙な謎を解きほどこうと同居人が静かにじっと考えていることが、その音からわかった。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo
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