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The Return of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの帰還

The Adventure Of The Empty House 空家の冒険 4

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
ここで僕が身体を伸び伸びと伸ばしていた頃は、ワトソン君、君達の一行が、まことにお気の毒な、全く徒労な方法で、僕の死の情況を探査していたのだったのさ。
 それから遂に、君たち一行は、それは止むを得ないことであるが、全く誤った断定を下して、ホテルに引き上げてしまったので、僕は全く一人ぽっちにのこされてしまった。
これで僕の大冒険もいよいよ終りかと想像したら、俄然、更に全く夢想もしなかった事件が突発した。僕には全くこの上にも、危険が取りのこされていることに気がついた。
と云うのは突然一つの大きな岩が、上の方から転落して来て、僕の横わっている上を、唸り越えて、小径に打ち当り、更に断崖の下の方に跳ねとんでいった。
最初のちょっとの間は、これはただ偶然の出来ごとに相違ないと思った。がしかし僕はすぐに、見上げた途端に、もう暮れかかった薄暗の空の前に、一人の人間の頭を見止めた。と、それと共に、またもう一つの大きな石が、転げ落ちて来て、僕が横わっている窪地の、僕の頭から一呎とも離れない出張りの角に当った。
もう一切が明瞭である。
モリアーティは決して一人ではなかったのだ。
一人の連累者、――それもただ一見して、いかに怖るべき人間であるかと云うことがわかったが、その連累者が、モリアーティが僕に襲いかかった時に、見張りをしていたのだ。
彼は遠方から、僕には全く気づかれないように、その友人の死と、僕の遁走を見届けたのだ。
彼はしばらく待ち構えた後、廻り道して断崖の上に来て、その友人の失敗を、見事に取り返そうと云うことであったのだ。
 ワトソン君、しかし僕はこう云う想定をするのにも、決して手間取らなかったよ。
その中にまた懸崖の上には、凄い顔が現われて、こっちを見下している。もう第二の石の来る前兆である。
とにかく僕は小径の上に這い下りた。
もちろん僕はこうしたことを、落ついてやってのけたとは云わないよ。
何しろこの這い下りることは、這い上るのに何百倍して、困難なことだったからね。
しかし僕はもちろん、危険などと云うことを考えてはいられなかった。僕が出張りの角に手をかけてぶら下った時に、また第三の石が落っこって来て、間髪の間を唸り越えて行った。
半分はただ辷り落ちに落ちて、ただ天祐で、とにかく平なところに着陸した。皮膚は擦りむけて、小径の上に血痕が滴りついた。
それから僕は遁走を続け、暗夜の中を十哩の山路を突破し、一週間の後には僕はフローレンスに現われたのだ。もちろん現世の人間と云う人間は、僕の行方などを知るはずはなかったのだが、――
 僕は一人の腹心の者をこしらえた、――それは兄のミクロフトであった。
僕は君には大に陳謝まらなければならないが、しかし何しろ僕としてはこうせざるを得なかったのだ。そしてまたもし君が、僕が生きていると云うことを知っていたとすれば、あんなに鮮かに、僕の不幸極まる最後の発表書を書けるはずもなかったのだからね。
この三年の間、実際何度か君にも書こうと思って、ペンも取り上げたが、やはりもしや君があんまり喜びすぎて、僕のこのせっかく大切の極秘主義に、かえって患することになりはしないかと思って、遂に書く決心も鈍ってしもうのであった。
こう云う理由のために、今夕君が僕の本をひっくり返した時も、さっさっと僕は君から、離れ去ってしまったのだ。実際あの時は僕にとっては、とても大変な場合だったからね。君がもしあまりに驚いた様子や、また感興を起されて、僕であると云うことが周囲の人々の目にわかってしまったら、それこそもう絶対絶命な、全く取り返しのつかないことだからね。
僕の兄のミクロフトの方は、どうも金が入用だったので、これは止むを得なかったのだ。
しかもロンドンにおいての、事態の進捗は、どうも僕が予期したようにうまくはいってくれなかった。モリアーティ一味の者に対する審問は、その中の最も怖るべき人物で、僕に対しては最も復讐の念に燃えている者を二人も放免してしまった。
そこで僕は二年の間は西蔵に旅行し、拉薩に遊んで、剌麻教の宗長とたのしい数日も暮した。
君はあの諾威人シガーソンの、有名な探険記を読んだかもしれないが、しかしおそらく君はその中で、君の友人の消息については、何物も知るところは無かったろう。
それから僕は波斯を通りメッカを見物し、それからちょっとではあったが、カァールトウムのカリファに、興味ある訪問をした。そしてこの事は僕は、外務省には通報しておいた。
フランスに帰ってからは、数ヶ月の間、コールタールの誘導物の研究に没頭し、南方フランスのモントプリーエの研究所では指導してやった。
それから僕は、満足する結果を得、またロンドンには、僕を狙う敵がただ一人っきり居ないと云うことを知ったので、もう出発しようと思っていた矢先に、かのレーヌ公園の魔の事件があったので、僕の行動は急に敏活となった。この事件は、事件そのものも、大に僕にさし迫るものもあったが、またその外に、ある個人的な、特殊な機会も含まっておるように思われたのだった。
僕は早速ロンドンに直行したが、まず自らベーカー街に現われて、ハドソン夫人を驚かして、癪を起されてしまった。兄のミクロフトは、実によく僕の書斎を管理していてくれて、新聞紙などまでが、全く昔日の通りにきちんと整理されていた。
さてワトソン君、このようにして僕は、今日の二時には、あの昔馴染の室の、昔馴染の椅子に収まったと云うわけさ。そこで僕のこの上の希望は、他のもう一つの椅子に、これまでしばしばあったように、わが親友の、ワトソン君を迎えることの出来ることなんだがね」
 以上のことは、僕はこの四月の宵に聞いた、驚異すべき物語りであるが、この物語りはもちろん、もし僕が現に、彼の脊の高い痩せた身体と、鋭い熱意のあふれた顔とを確に見なかったら、――もっともこれはとても二度とは逢われるものと夢想もしなかったものであったが、――とても信を置かれるものではなかった。
彼は私が彼の喪失に対して、ひどく悲歎していたことを何からか察知して、それに対する衷情は、彼の言葉よりも、その態度の上によく現われた。
「ワトソン君、仕事は悲哀に対する、最善の解毒剤だよ」 彼は更に言葉をさしはさんだ。「ここに我々にとっての小さな仕事があるんだがね。もしこれがうまくゆけば、一人の全く疑惑の中にある生活を、明るみに暴け出してみせることが出来ると云うものだよ」
 私は更にこの先をきこうとしたが、しかし彼はもう云ってはくれなかった。
「それは朝までには、何もかもよくわかるよ。
さあ吾々にはまだ過去の三年間の積る物語りがある。
九時半まで大に語り合って、さてそれからいよいよ、特筆すべき空家の大冒険と出かけようではないか」彼はおもむろにこう答えた。
 さてその九時半が来たので、私はかつてよくやったように、馬車の中に彼と隣り合って坐った。ポケットの中には拳銃が秘められ、私の胸は無暗にわくわくと慄えた。
ホームズはと見れば、冷静に粛然と黙している。
街灯の光で見える彼の厳粛な面影、――沈思に耽っているのであろう、両の眉は茫然と放たれ、薄い唇は固く結ばれている。
一たいこの犯罪の都ロンドンの、暗黒な籔の中から、果してどんな獲物を狩り出そうと云うのであろう! 何しろこの狩猟長の厳粛な表情を見ると、この冒険はなかなかの重大事であると云うことは、看取されたが、またそれと共に時々漏れるこの苦行者の暗欝の中からの嘲笑は、この探険に対して何等かの自信を思わせるものであると思われた。
 私達はベーカー街にゆくものと思ったら、ホームズはキャベンディッシの辻で、馬車を止めた。
それから彼は馬車から降り立って、左右に鋭く注意し殊に曲り角では、誰かに尾けられはしまいかと、驚くべく細密な注意を払った。
道は一本道であった。
ホームズのロンドンの裏通りに対する智識は大変なもので、彼はどんどんと急ぎ足で進み、私などは夢想もしなかった、鷹籠の網や厩のある間を通り抜けて、
更に古い陰欝な家屋のある細い通りを過ぎて、マンチェスター街に出で、それからブランドフォード街に現われた。
ここでホームズは素早く小さな路次に飛びこみ、木戸を開けて、荒廃した空地を通りぬけ、そして一軒の家の裏戸を鍵で開けて、
その中に入り、また後からその戸を閉めた。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Otokichi Mikami
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