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Sherlock Holmes Collection シャーロック・ホームズ コレクション

A Study In Scarlet 緋色の研究 第二部 第一章 2

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
「それで、おじさんは手も顔も洗えないんだ。」と少女はまじめな顔をして、旅人の赤で汚れた顔を見つめる。
「そう、それに飲めなくもなった。
ベンダーさんが最初にお出かけして、それからインディアンのピート、次はマグレガーの奥さん、次はジョニー・ホーンズ、次は、嬢ちゃん、君のママだ。」
「ママも死んじゃったんだ。」と少女は顔をエプロンにうずめて、つらそうに涙を流した。
「ああ、おじさんと嬢ちゃんを残して、みんなお出かけしてしまったんだ。
おじさんは、こっちの方に水がありそうだと思って、嬢ちゃんをかついで一緒に流れてきたんだが、
どうも思わしくないらしい。
もう一粒の望みも残ってないんだ。」
「あたしたちも死ぬってことなの?」と少女は急に泣くのをやめて、涙顔を上げた。
「まあそんなところだろうな。」
 少女は嬉しそうに笑って、「なんでもっと前に言ってくれないの? あたし本当にびっくりしたんだから。
だって、あたしたちが死ぬってことは、あたしたち、ママとまた一緒にいられるってことでしょ。」
「ああ、そうだな、嬢ちゃんはな。」
「おじさんだってそうよ。おじさん、すごくいい人だったって言ってあげるんだから。
ママ、きっと天国の扉のところで、大きな水差しいっぱいの水と、そば粉のパンケーキをたくさん用意して迎えてくれるんだから。もちろん、両側をこんがり焼いた、あたたかいパンケーキ。ボブお兄ちゃんやあたしが大好きなんだ。
あとどれくらいで着くの?」
「さあ……長くはない。」
と、旅人は北の地平線の方をじっと見る。
蒼天には三つの小さな点が見える。点は段々と大きくなり、あっと言う間にこちらへ近づいてくる。
目に見える距離になってようやく、三羽の大きな茶色の鳥だとわかった。鳥は二人の旅人の頭上を旋回し、二人を見渡すことのできる岩の上に落ち着いた。
西部の猛鳥、コンドルだ。コンドルの到来は、死の前触れである。
「雄鳥と雌鳥だ。」と少女は不吉な鳥を指差して、うれしそうに叫ぶ。そして飛び上がらせようと手を叩く。
「ねぇ、この地は主がお作りになったの?」
 旅人は思いもしなかった問いに驚きつつも、「もちろん」と答えた。
「イリノイにこの地をお作りになって、ミズーリもお作りになったのね。
でも、ここは誰か別の人が作ってしまって、あまりうまくできなかったんだと思う。
だって、水とか木とか忘れてるんだもん。」
「祈りをささげてみるかい?」と旅人はためらいながら言う。
「まだ夜じゃない。」
「心配ない。確かに普通じゃないが、そんなこと気になさるまい、大丈夫。
あれを今言ってごらん、みんなと平原にいたとき、馬車の中で毎晩唱えていただろう?」
「おじさんはそのお祈りをしないの?」と少女は不思議そうに見つめる。
「思い出せないんだ。
おじさんはこの銃の半分くらいの背の頃から、お祈りをしたことがない。
だが決して遅くはないだろう。
嬢ちゃんがお祈りしたら、おじさんもそばから加わるよ。」
「じゃあ、おじさん、ひざをつかなきゃ。で、あたしも。」 少女は跪くために、あの包みを地面に敷いた。
「こういうふうに手を組み合わせて。ちゃんとした気持ちになるから。」
 もしコンドル以外に見ているものがあれば、奇妙な光景に映っただろう。
二人の旅人が肩寄せ合って、狭い布の上に跪いている。おしゃべりな少女と、勇猛果敢な冒険者。
少女のふっくらした顔と旅人の骨張った顔は、曇りない空に向いて、恐ろしい存在を目の前にして、心からの祈りをささげている。一方はかぼそく澄んで、もう一方は深く厳しい、その二つの声は一緒になって、慈悲と許しを乞うていた。
祈りが終わると、二人は丸石の陰に再び腰を下ろした。まもなく少女は眠りに落ち、旅人の大きな胸の中に気持ちよく沈み込む。
旅人もしばらく少女の寝姿を見守っていたが、自然の力には勝てなかった。
三日三晩、旅人は休むことも眠ることもしなかったのだ。
ゆっくりと眉を疲れた目の上に落とし、うなだれて、旅人の白髪混じりのひげが少女の長い金髪と交じり合ってしまった。二人そろって、夢も見ぬほど深く眠った。
 もし旅人があと三〇分起きていたら、奇妙な光景が目に映ったことだろう。
はるか彼方、アルカリ大平原の地平線に、小さく砂塵が舞った。本当に小さかったので最初は霧とほとんど区別がつかなかったが、徐々に大きくなっていって、くっきりと形をもった雲のようなものになった。
この雲はさらに大きくなりつづけ、動く生き物の大群が引き起こしているということが、はっきりしてきた。
ここが肥沃な土地であれば、一見して大地の草を喰らう野牛の大群でも近づいているのではないかと思っただろう。
舞う粉塵が二人の遭難者の休んでいた孤独な断崖にさしかかったとき、もやの中から馬車の帆布と武装した騎手が現れ、それが西部に向かう大きなキャラバンであるということがわかった。
しかし、ものすごい規模のキャラバンだった。先頭が山の麓に届いているというのに、最後尾がまだ地平線上に見えないのだ。
大平原を真っ直ぐ横切って、馬車や軽馬車、馬上の人、徒歩の人などの隊列が進んでいる。
大勢の女性が荷物を背負って続き、子どもたちが馬車のそばで歩いたり、馬車の白い覆いの下から外をのぞき見たりしている。
普通の移民隊ではないようで、むしろ新しい土地を探さねばならぬまでに追いつめられた、遊牧民といった印象だった。
澄み切った空に、大勢の人間から発せられる混沌とした騒音や、車輪のきしみ、馬のいななきなどが響き渡る。
騒がしかったが、その上にいる二人の疲れ切った旅人を目覚めさせるには至らなかった。
 列の先頭に二〇人ばかり、鋼鉄のようにいかめしい顔をして、地味で目立たない服を着て、ライフルで武装した馬上の男たちがいた。
断崖の下につくと、男たちは立ち止まり、ちょっとした相談を始めた。
「兄弟諸君、右に泉がある。」口許かたく、灰色をおびた毛をした無髯の男が言った。
「シエラブランコの右――リオ・グランデへ行くつもりか。」と別の男。
 三人目が、「水の心配などいらぬ。岩山から水を出されたお方のことだ、その選んだ民をこんなところで見捨てるわけがないだろう。」
「アーメン、アーメン。」と全隊がそれに応える。
 そうして再び行進を再開しようとしたとき、眼光鋭い若者が驚きの声を上げて、頭上のごつごつした岩を指差した。
頂上で桃色の小さな布きれの端がひるがえっていたからだ。背後にある灰色の岩に対して、明るい色が目立っていた。
それを見ると、一斉に手綱を引いて、銃を肩から外し、また前衛強化のために後ろから若い騎馬隊が急いでやって来た。
「赤肌か」と口々にささやかれる。
 隊長らしき年長の男が、「ここにインジャンがいるはずはない。
ポーニ人をやりすごしたゆえ、あの偉大な山々を越えるまでは他の部族などおらぬはず。」
「行って見てこようか、兄弟スタンガスン。」と一人が言う。
 すると我も我も、と十人ほどの声があがる。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo
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