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The Memoirs of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの思い出

Silver Blaze 白銀の失踪 1

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
白銀の失踪 SILVER BLAZE コナンドイル Conan Doyle 三上於莵吉訳
「ワトソン君、僕は行かなきゃならないんだがね」 ある朝、一緒に食事をしている時にホームズがいった。
「行くってどこへ?」
「ダートムアだ――キングス・パイランドだ」
 私は格別おどろきもしなかった。事実、私は、今全イングランドの噂の種になっているこの驚くべき事件に、ホームズが関係しないということをむしろ不思議にさえ思っていたのである。
前の日、ホームズは終日眉根をよせた顔を首垂《うなだ》れて、強い黒煙草をパイプにつめかえつめかえ部屋の中を歩き廻ってばかりいて、私が何を話しかけても何を訊ねても石のように黙りこくっていた。
あらゆる新聞の新らしい版が出るごとに、いちいち配達所から届けられたが、それすらちょっと眼を通すだけですぐに部屋の隅へ投げすてた。
しかも、彼が一言も口をきかないにも拘らず、彼の頭脳《あたま》の中で考えられていることは、私にはよく分っていた。
いま彼の推理力と太刀打ちの出来る問題といえばただ一つ、ウェセックス賞杯《カップ》争覇戦出場の名馬の奇怪なる失踪と、その調馬師の惨殺された事件があるのみだ。
だから彼が突然、その悲劇の現場《げんじょう》へ行くといい出したことは、私にとっては予期していたことでありまた希望していたことでもあったのだ。
「差支えがなければ僕も行ってみたいんだがね」と、私はいった。
「君に来てもらえれば大変有難いんだが。
この事件は極めて特異なものだと思われる節があるから、君にしたって行くことはまんざらむだにはなるまいと思う。
今からパディントン停車場へ行けば、ちょうど汽車の時間にいいだろう。委《くわ》しいことは途々《みちみち》話すとして、
すまないが君のあの上等の双眼鏡を持って来てくれたまえ」
 それから一時間あまりの後には、私はエクスタ行の一等車の一隅に腰かけていた。シャーロック・ホームズは耳垂れつきの旅行用ハンチングを被った顔を緊張させて、パディントンで新らたに買った新聞に忙しそうに眼を通していた。
そしてリイディングをずっと過ぎた頃、彼はそれ等の新聞をまとめて座席の下へ突込み、シガー・ケースを取出して私にもすすめた。
「至極順調に走ってるようだね」 ホームズは窓の外を眺めながらそういった。そして時計を出して見て、
「今ちょうど速力は一時間五十三哩《まいる》半だ」
「四分の一哩標が見えなかったようだが」 と、私はいった。
「僕はそんなものは見やしないよ、
だが、この線路の電柱は六十ヤードごとに立ってるのだから計算は極めて簡単に出来るんだ。
ところで、ジョン・ストレーカ殺しと白銀号《しろがねごう》失踪事件については、もう十分知ってるんだろうね?」
「テレグラフ紙とクロニクル紙との記事は読んだ」
「この事件も探究の方法としては、新らしい証拠を求めるよりも、既に知れている些末な事実を分析し淘汰して行く方が、賢い方法かも知れぬ。
今度の事件は非常に珍らしい事件で巧妙に行われ、その上多大の人々に重大な関係を持ってるものだから、いろいろと揣摩臆説が行われるんで困らされてるんだが、
要するに問題は事実の骨組を、絶対に動かすべからざる事実の骨組を、諸説紛々たる報道の中から掴み出せばいいんだ。
そして、それが出来たら、そのしっかりとした根底の上に立って、そこからいかなる推論が出て来るか、事件の秘密はどの点にかかっているかということを発見するのが我々の役目だ。
僕は火曜日の晩に、馬の持主のロス大佐と事件担当のグレゴリ警部との両方から、来て一緒に調べてくれという依頼の電報を受け取ったんだ」
「火曜日の晩に?」私は叫んだ。
「今日は木曜日じゃないか。何んだって昨日のうちに行かなかったんだい?」
「僕がどじを踏んだんだよ君、そうした失敗は、君の記録によってのみ僕を知る人々が考えているよりもはるかにちょいちょい僕にはあるんだよ。
こういうわけさ、――イングランド一流の名馬がそう長く行方の知れないわけがない、殊にダートムアの北部のような人口の稀れな地方にあっては、そんなことはあり得ないと考えたんだ。
だから、昨日は、今に馬盗人が知れた、そしてストレーカ殺しもその馬盗人と同一人だったと知らせて来るかと、そればかり待ち暮したんだよ、
しかし、また一日が空しくすぎて、今朝になってみると、フィツロイ・シンプソンという青年が捕まったきりで、事が少しも捗らないようだから、いよいよ自分の出場《でば》が来たと思ったんだ。
とはいっても、昨日だって決して空費したわけではないがね」
「じゃ、見込でもついたのかね?」
「少くとも事件の主要な事実だけは掴んだ。
それを君に話してきかそう。他人に事件の経緯《いきさつ》を話してきかせるくらい自分の考えをはっきりさせ得ることはないのだし、それに事件をよく知ってもらって、どこから手をつけるべきかを話しておかないと、君にしても助力のしようがあるまいからね」
 私はクッションに身を埋《うず》めて葉巻を吹かしながら、ホームズが身体を前へ乗り出して、要点ごとに細長い人差指で左の掌を叩き、事件の大体を話すのをきくのであった。
「白銀号というのはアイソノミ系の馬だが、祖先の名を恥かしめぬ立派な記録を持っている。
今は五歳で競馬のあるたびに賞品をみんな攫って来るんで、持主のロス大佐は非常にうまくやってるわけだ。
現に今度の事件の起るまで、白銀号といえばウェセクス賞杯《しょうはい》争覇戦第一の人気馬で、賭もほかの馬に対して三対一という割合だった。
それほど競馬界切っての人気をつづけて来ながら、まだ一度もその贔負に失望を与えたことがないものだから、少々ぐらい賭金は高くても、依然として白銀号には莫大な金が賭けられるというわけなんだ。
だから、この火曜日の決戦に白銀号が出られなくするということは、多くの人々に非常な利害関係を持つことになる。
 この事実は、むろん大佐の調馬場のあるキングス・パイランドではよく心得ていた、
調馬師のジョン・ストレーカという男はもと騎手で、ロス大佐の騎手をやっていたが、体重が重くなったので止めたんだ。
騎手として五年、調馬師として七年大佐に仕えているが、その間いつも熱心で正直な男としてつとめて来た、
規模の小さな調馬場で、馬が四頭しかいなかったから、ストレーカの下に三人の若い者がいるだけで、
そのうちの一人が毎晩|厩舎《うまや》に寝ずの番をし、あとの二人は厩舎の二階に寝ることになっていた。
三人とも至極性質のよい若者だ。
ストレーカには妻があって、厩舎から二百ヤードばかりはなれたところにある小さな家《うち》に住んでいた。
子供はないが女中を一人おいて気楽に暮していた。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Otokichi Mikami
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