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The Memoirs of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの思い出

Silver Blaze 白銀の失踪 2

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
この附近は極めて淋しいところで、だだ半哩ばかり北の方に、タヴィストック市のある請負師が、病人や、ダートムアの新鮮な空気を楽しみたいという人達をあてこんで建てた別荘風の家が一かたまりあるだけだ。
タヴィストックへは西へ二哩ばかりあり、荒地《あれち》を越して二哩ばかり行くと、ケープルトンにはかなり大きな調馬場がある。これはバックウォータ卿の所有で、サイラス・ブラウンという男が管理している。
そのほかどっちを見ても、荒地は全く人気《ひとげ》というものがなく、ただわずかに漂白《さすらい》のジプシーが二三いるくらいのものだ。
これが日曜の晩に事件が起るまでの大体の状況だ。
 当夜はいつもの通り馬を運動させて、水をやった上九時に厩舎の戸を閉めて戸締りをした。
そして三人の若い者のうち二人は台所で夕飯を食べに調馬師の家まで歩いて行くし、あとの一人ネッド・ハンタだけは厩舎に残って番をしていた、
すると、女中のエディス・バクスタが九時ちょっとすぎに、羊のカレ料理の夕飯を運んで来てくれたが、
それには飲みものは何も添えてなかった。仕事中は水以外の飲みものは飲んでならないことになっていたし、水なら厩舎にいくらでも出る栓があるからだ。
非常に暗い晩だったので、それに途中は淋しい荒地だったので女中は提灯を持っていた。
 女中のエディス・バクスタは厩舎から三十ヤードばかりのところまで来ると、暗がりの中から不意に声をかけて一人の男が現われて来た。
提灯の投げる丸い光の圏内まで来たのを見ると、鼠色のスコッチの服を着て羅紗のハンチングを被った紳士風の男で、
ゲートルをつけて、握りの玉になってる太いステッキを持っていたという。
が、エディスが特に印象づけられたのは、顔色がひどく蒼ざめて、何んとなく挙動のそわそわしてることだった。
年は三十をちょっとすぎたくらいだったという。
「一体ここはどこなんですか?」 と男は訊ねた。
「仕方がないからこの荒野で野宿をしようと決心してるところへ、お前さんの灯が見えたんでホッとしたわけですよ」
「ここはキングス・パイランド調馬場のすぐ側《わき》です」
「おお、そうだったか! それはまあ何んという仕合せなことだろう! 
ふむ、毎晩一人ずつ厩舎で寝るんだと見えるな。
それでいまお前さんが夕飯を持って行って来たんだな。
ところでお前さん、新らしい着物が一重ね拵えられるお金の儲かる話があるんだが、嫌だなんて見栄を張るお前さんじゃありますまいね?」
男はチョッキのポケットから折りたたんだ白い紙を取出して、
「これを今晩の中《うち》に厩番《うまやばん》に手渡してくれれば、お前さんは飛切上等《じょうら》の晴着が手に入るんだがね」
「女中がこの男の様子があんまり真剣だったので恐くなって、すりぬけるようにしていつも食事を渡すことになってる厩舎の窓のところへ駈けて行った。
と、ハンタはもう窓を開けて、小さなテーブルに向って食事をしていた。
ネッド実はいまこれこれだと話しかけてると、そこへまたも先刻《さっき》の男が追っかけて来た。
「今晩は」男は窓から中を覗き込みながら、
「実はお前さんに少々話したいことがあるんですがね」
とハンタに声をかけたが、その時に手に握っていた小さな紙包の端がチラッと見えたと、後で女中は断言している。
「何用で来なすったのかね?」ハンタは反問した。
「お前さんの儲かる耳よりな話なんだがね。
ここにはウェセクス賞杯戦に出る馬が二頭いる――白銀と栗毛と――
お前さん確実な予想を教えてくれませんかね、決して悪いようにはしないが。
重量の点で、栗毛は八分の五哩で白銀に百ヤードは分があるというんで、馬主筋はみんな栗毛に賭けたというが本当かね?」
「うむ、さては手前は馬の様子を探りに来たスパイだな? 
よしッ! キングス・パイランドではスパイをどう扱うか見せてやろう」
とハンタは叫んで、犬を放しに走った。
女中はそのまま家の方へ駈け戻ったが、走りながら振返ってみると、その男は窓から中へ半身を乗り入れるようにしていたという。
けれどもそれから一分間後に、ハンタが犬をつれて外へ飛び出して見た時には、もうその男はいなかったので、厩舎のまわりを駈けずりまわって探してみたが、どこにも姿は見えなかった。」
「ちょっと」 私はホームズを遮った。
「ハンタは犬をつれて飛び出した時、厩舎の戸締りをしないでおったのかい?」
その点が非常に大切だと思ったから、僕は昨日ダートムアへ電報を打って訊ねてみた。
ハンタは出る時鍵をかけたそうだ。
そして窓は、人間の入れるほどの大きさはないという。
 ハンタは仲間が食事から帰って来るのを待って、親方の調馬師に事の次第を報告に出かけた。
ストレーカはそれをきくとひどく昂奮して、それが何を意味するか分らなかったらしいが、漠然たる不安を感じたらしかった。
そして夜の一時に細君がふと眼を覚ましてみると、服を着かけていたという。
細君が驚いてその理由《わけ》を訊ねると、馬のことが心配になって眠れないから、厩舎に間違いでもないかを見に行くつもりだという。
ちょうど雨が窓を打つ音をきいたので、細君はどうぞ家《うち》にいてくれと願ったが、泣かんばかりに願ったが肯《きき》入れないで、大きな雨外套に身を包んでそのまま出ていってしまった。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Otokichi Mikami
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