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The Adventures of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの冒険

A Case Of Identity 花婿失踪事件 1

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
花婿失踪事件 A CASE OF IDENTITY アーサー・コナン・ドイル Arthur Conan Doyle 加藤朝鳥訳 大久保ゆう改訳
「いいかね。」とシャーロック・ホームズは、ベイカー街の下宿でふたり暖炉を囲み、向き合っているときに言い出した。「現実とは、人の頭の生み出す何物よりも、限りなく奇妙なものなのだ。
我々は、ありようが実に普通極まりないものを、真面目に取り合おうとはしない。
しかしその者たちが手を繋いで窓から飛び立ち、この大都会を旋回して、そっと屋根を外し、なかを覗いてみれば、起こっているのは奇怪なること――そう、妙に同時多発する事象、謀りごとにせめぎ合い、数々の出来事が不思議にもつながり合って、時を越えてうごめき、途轍もない決着を見せるとなれば、いかなる作り話も月並みなもので、見え透いた結びがあるだけの在り来たりの無益なものとなろう。」
「そうはいっても納得しかねるね。」と私は答える。
「新聞紙上で明るみに出る事実なんて、大抵が実にそっけなく実に卑しい。
モノを見てもだ、警察の調書などでは写実主義が限界まで貫かれているにもかかわらず、出来上がるものにはまったくのところ、魅力もなければ芸もない。」
「それなりの取捨選択を用いねば真実味は生み出し得ない。」とはホームズの御説だ。
「これが警察の調書には欠けている。ことによると細部よりも治安判事の戯れ言に重点を置く。細部にこそ、観察に値する事件全体の核心が含まれている。
信じていい、普通なるものほど不自然なことはない。」
 私は笑みを漏らし首を振って、
「君がそう考えるのもわからないではないよ。
そら君の立場としては、三大陸じゅうにいる考えあぐねた人々、その皆の私的相談屋・お助け屋であるわけだから、奇妙奇天烈なあらゆることに関わり合う羽目にもなる。
しかしまあ、」――と床から朝刊を取り上げて――「ここらで実地に試してみよう。
とりあえず目に付いた見出しはこうだ。
『妻に対する夫の虐待』、
段の半分にわたる記事だが読まんでもわかる。まったくよくある話に決まってる。
ほら、他に女が居て、酒に喧嘩、薬に生傷、世話焼きな妹か女家主。
いくらヘボ文士でも、これほどヘボなものは書けんよ。」
「ふむ、この例は君の説に不適切だ。」とホームズは新聞を取り上げ、目を落としながら言う。
「これはダンダス夫妻の別居訴訟と言って、あいにく僕もこの件の謎解きに少しばかり噛んでいる。
この夫はまったく酒を飲まず、他に女もいない。訴えられた行状というのが、食事の終わるたび入れ歯を外して妻に投げつける、そんなふうにずるずるとなっていったというものだ。わかるだろう、これは凡百の語り部の想像に浮かびそうな行為ではない。
嗅煙草でもやりたまえ、博士、そして自分の引いた例でやりこめられたと認めることだ。」
 と差し出された古金色の嗅煙草入れ、蓋の中央には大粒の紫水晶、
その見事さが友人の質素な暮らしぶりとあまりに対照的であったため、口を挟まずにはいられなかった。
 ホームズは、「ああ、忘れていた、君は数週間ぶりだったか。
これはボヘミア王からのささやかな記念品だ。あのアイリーン・アドラーの書類の件に力添えした礼に。」
「ならその指環は?」
と私が、その指に巧みなブリリアントカットの宝石があるのに目を付けて訊ねると、
「これはオランダの現王家からだ。手がけた一件については微妙なものだから君にも打ち明けられない。僕の些細な案件をひとつふたつ記録してくれるくらいは構わないのだが。」
「なら今は何か手がけてないのか?」と私が前のめりに聞くと、
「一〇ほど、いや一二か。だが少しも惹かれそうなところがない。
面白くはなくとも無論大切ではある。
ところが実際のところ、経験上、大抵取るに足らないところにあるのだよ、観察力と鋭い因果分析力の発揮できる場というものは。
大犯罪ほど単純化する傾向があるが、それは犯罪の規模が大きくなれば、原則として動機が見えやすくなるからだ。
手元の案件のうちでは、ひとつだけやや込み入った事件の問い合わせが、マルセイユからあるのだが、それ以外は惹かれるものが何もない。
だがほんの数分もすれば、もっと良いモノが手に入る見込みがある。あそこだ、あれはうちの依頼人になる。でなければ僕は大馬鹿者だ。」
 ホームズは椅子から身を起こし、窓掛けの合わせ目のあいだに立つ。見下ろす先には、くすんだ中間色のロンドン市街、
私もホームズの肩越しに覗いてみると、向かいの舗道に大柄の女が、ふっくらした毛皮の襟巻きを首に廻して、鍔広《つばひろ》の帽子に大きな曲線を描いた赤い羽根をつけ、それを艶なデヴォンシア公爵夫人流に、片耳隠しで斜《はす》にかぶって立っている。
かかる晴れがましい装いの奥から、女の視線が気遣わしげに、ためらいがちにこちらの窓へ向けられている。と同時に女の身体はそわそわと前後に動き、その指は手袋の釦をいじくり回している。
と途端に飛び出すのは、岸を泳いで離れるかのようで、急ぎ足で道を渡り、やがて呼び鈴のけたたましい音が聞こえる。
「今のような素振りは以前にもあった。」とホームズは紙巻き煙草を暖炉にくべる。
「舗道でそわそわするのは、色恋沙汰と決まっている。
助言を欲しているのだが、事が微妙のあまり人に言ったものかと心を決めかねている。
とはいえここにいても見て取れることはある。
たとえば女が男から心底ひどい目に遭わされたのならためらいなどしようもなく、その場合は大抵、呼び鈴の紐を引きちぎって見せる。
ここで取れる解釈とは、色恋沙汰ではあるが、その乙女は怒るというより戸惑っているないし悲嘆に暮れている。
だがここに本人も来たから、この悩みもすぐに解けよう。」
 という間に部屋の扉が叩かれ、給仕服の少年が入ってきてメアリ・サザランド嬢と告げるや、女性本人の姿が黒づくめの少年の後ろからぬっと現れる。あたかも水先案内の小舟についてくる満帆の商船のごとくだ。
シャーロック・ホームズは彼らしく快く迎え、そして扉を閉め、丁重に肘掛け椅子を勧めながらも、さっと女をながめ回す。
「その近眼でタイプ打ちを相当になさると、少々おつらいでしょうに。」
「はい、初めのほどは。」と女は答える。「しかし今では見ないでも文字の位置はわかりますので。」
とそのときふと、相手の言葉の意味するところがわかったのか、女は驚いて顔を上げる。その大きく愛嬌のある顔は、面食らいつつもいぶかしげであった。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Asatori Kato, Yu Okubo
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