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The Memoirs of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの思い出

The Stock-Broker's Clerk 株式仲買人 1

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
 結婚してほどなく、私はパディントン区に医院を買った。
ファーカ氏という老人がその売り手で、一時はかなり手広くやっていたのだが、年もあり舞踏病の気もあったために参ってしまい、ひどく寂れてしまっていたのだ。
世間の人にとって、人を治す者は自身も健やかたるべき、その薬が自分の病に効かないとなればその人物の医者としての腕前を怪しむ、というのも無理からぬ話である。
このように前の持ち主はその医院を傾かせていき、私が購入したときにはもう、年一二〇〇から三〇〇に落ち込んでしまっていた。
けれども私は、自分の若さと体力とに自身があったので、ほんの数年のうちにかつてほどの賑わいを見せるものと確信していた。
 業務を引き継いでから三ヶ月の間は仕事にかかりきりで、我が友シャーロック・ホームズとも顔を合わせなかった。多忙のあまりベイカー街へも行けなかったし、向こうも職業上の案件をのぞいてはほとんどどこへも出かけなかったからだ。
だから驚きだった。六月のある朝、朝食後に腰を下ろして大英医師会報を読んでいると、呼び鈴の音が聞こえ、そのあと我が懐かしき友のあの高くどこか軋むような声が続いたのだ。
「やあ、ワトソンくん。」と友人はつかつかと部屋に上がり込む。「会えて実に嬉しい! 
御前様はもうすっかりいいのだろう、『四人の誓い』事件の関係で、いささか動揺されていたが。」
「おかげさまで二人とも元気だ。」と私は言って、心からその手を握った。
「それから願わくは、」と友人は話を続けながら揺り椅子に座って、「医療にかまけて、僕らのささやかな推理の問題に傾けていた興味を、すっかりなくしてしまってなければいいのだが。」
「ところがどっこい。」と私は答える。「つい昨晩も古い覚書きに目を通して、過去の成果をいくつか整理していたところだ。」
「とすると、君の記録も終わったわけではないと。」
「まったくだ。こんな経験がもっとできるに越したことはないとさえ思う。」
「ではたとえば、今日は?」
「ああ今日でも、君がよければ。」
「バーミンガムくんだりでも?」
「ああ必要なら。」
「すると仕事の方は?」
「隣がいないときは私がやってる。
向こうも借りを返したがっててな。」
「ふむ、好都合だ。」とホームズは椅子にもたれかかったまま、細めた目で私を鋭く見つめる。
「どうやら君は近頃すぐれないようだ。
夏風邪はいつも性格が悪い。」
「ひどく寒気がして、先週三日ばかり家に閉じこもりだったよ。
だけどもうすっかり抜けきったかな。」
「その通り、かなり平気そうだ。」
「にしても、どうしてわかったのかね?」
「まったく、僕のやり口は知ってるだろうに。」
「なら演繹か。」
「まさしく。」
「では何から?」
「君の室内履きから。」
 私は自分の履いている新品のエナメル革に目をおろした。
「いったいどうやって――」と言いかけたところで、ホームズは問われるよりも早くその疑問に答えた。
「その履き物は新しい。」と友人。
「履いてからまだ何週間もない。
だが今、僕に向けている履き物の底は両方ともやや焦げている。
そこで少し考えたのが、濡れたから火に当てて乾かしたのでは、ということ。
しかし甲のあたりに丸い小さな紙切れがあって、店の印がついている。
濡れたのなら剥がれてなければおかしい。
ならば君は腰掛けて火に両脚を差し出していた。いくらじめじめした六月とはいえ、そんなことをする人間はそういない、病人以外は。」
 ホームズの推理の常であるが、いったん説明されると、今日の件もいかにも単純に思えてきた。
友人はこちらの顔色をうかがうと、苦笑いを浮かべる。
「説明すると、どうも『ばれた』という気分になる。」と友人。
「根拠のない帰結の方がすこぶる印象深いものだ。さて時に、
バーミンガムまで来る覚悟は?」
「あるともさ。どんな事件だい?」
「汽車に乗ればわかる。
今回の依頼人が表の四輪馬車にいるのだ。
今すぐ出発できるか?」
「あっという間に。」
私は隣人への言伝を書き殴り、階段を駆け上がって妻に事情を話し、そして戸口のところにいたホームズと合流した。
「隣が医者か。」と友人は真鍮の札を顎で示す。
「ああ。私と同じで、買い取りの医院だ。」
「古くからある?」
「うちと同じくらいだ。
どちらも家屋が建てられてずっとそうなんだ。」
「ほう! すると君は二軒のうちのいい方を手に入れたと。」
「そのつもりだ。けれどどうしてわかる?」
「この戸口の段だ。
君のところは隣より三インチ余計にすり減っている。
ところで、馬車のなかのこの紳士が今回の依頼人、ホール・パイクロフト氏だ。
今から君を紹介しよう。
馬に鞭だ、御者。汽車に間に合うかぎりぎりなのだ。」
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo
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