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坊っちゃん 一 Botchan Chapter I (2)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
 母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮《くら》していた。
おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目《だめ》だ駄目だと口癖のように云っていた。
何が駄目なんだか今に分らない。
妙《みょう》なおやじがあったもんだ。
兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。
元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍《いっぺん》ぐらいの割で喧嘩《けんか》をしていた。
ある時将棋《しょうぎ》をさしたら卑怯《ひきょう》な待駒《まちごま》をして、人が困ると嬉《うれ》しそうに冷やかした。
あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間《みけん》へ擲《たた》きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。
兄がおやじに言付《いつ》けた。おやじがおれを勘当《かんどう》すると言い出した。
 その時はもう仕方がないと観念して先方の云う通り勘当されるつもりでいたら、
十年来召し使っている清《きよ》という下女が、泣きながらおやじに詫《あや》まって、ようやくおやじの怒《いか》りが解けた。
それにもかかわらずあまりおやじを怖《こわ》いとは思わなかった。かえってこの清と云う下女に気の毒であった。
この下女はもと由緒《ゆいしょ》のあるものだったそうだが、瓦解《がかい》のときに零落《れいらく》して、つい奉公《ほうこう》までするようになったのだと聞いている。
だから婆《ばあ》さんである。
この婆さんがどういう因縁《いんえん》か、おれを非常に可愛がってくれた。
不思議なものである。母も死ぬ三日前に愛想《あいそ》をつかした――おやじも年中持て余している――町内では乱暴者の悪太郎と爪弾《つまはじ》きをする――このおれを無暗に珍重《ちんちょう》してくれた。
おれは到底《とうてい》人に好かれる性《たち》でないとあきらめていたから、他人から木の端《はし》のように取り扱《あつか》われるのは何とも思わない、かえってこの清のようにちやほやしてくれるのを不審《ふしん》に考えた。
清は時々台所で人の居ない時に「あなたは真《ま》っ直《すぐ》でよいご気性だ」と賞《ほ》める事が時々あった。
しかしおれには清の云う意味が分からなかった。
好《い》い気性なら清以外のものも、もう少し善くしてくれるだろうと思った。
清がこんな事を云う度におれはお世辞は嫌《きら》いだと答えるのが常であった。
すると婆さんはそれだから好いご気性ですと云っては、嬉しそうにおれの顔を眺《なが》めている。
自分の力でおれを製造して誇《ほこ》ってるように見える。
 母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。
時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。
つまらない、廃《よ》せばいいのにと思った。気の毒だと思った。
それでも清は可愛がる。
折々は自分の小遣《こづか》いで金鍔《きんつば》や紅梅焼《こうばいやき》を買ってくれる。
寒い夜などはひそかに蕎麦粉《そばこ》を仕入れておいて、いつの間にか寝《ね》ている枕元《まくらもと》へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩《なべやきうどん》さえ買ってくれた。
ただ食い物ばかりではない。靴足袋《くつたび》ももらった。鉛筆《えんぴつ》も貰った、帳面も貰った。
これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。
おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。
実は大変嬉しかった。
その三円を蝦蟇口《がまぐち》へ入れて、懐《ふところ》へ入れたなり
便所へ行ったら、すぽりと後架《こうか》の中へ落《おと》してしまった。
仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒を捜《さが》して来て、取って上げますと云った。
しばらくすると井戸端《いどばた》でざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口の紐《ひも》を引き懸《か》けたのを水で洗っていた。
それから口をあけて壱円札《いちえんさつ》を改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。
清は火鉢で乾《かわ》かして、これでいいでしょうと出した。
ちょっとかいでみて臭《くさ》いやと云ったら、
それじゃお出しなさい、取り換《か》えて来て上げますからと、
どこでどう胡魔化《ごまか》したか札の代りに銀貨を三円持って来た。
この三円は何に使ったか忘れてしまった。
今に返すよと云ったぎり、返さない。
今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。
 清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。
おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。
兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子《かし》や色鉛筆を貰いたくはない。
なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣《や》らないのか
と清に聞く事がある。すると清は澄《すま》したものでお兄様《あにいさま》はお父様《とうさま》が買ってお上げなさるから構いませんと云う。
これは不公平である。おやじは頑固《がんこ》だけれども、そんな依怙贔負《えこひいき》はせぬ男だ。
しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。
全く愛に溺《おぼ》れていたに違《ちが》いない。
元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。
単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。
清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。
その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。
こんな婆さんに逢《あ》っては叶《かな》わない。
自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。
おれはその時から別段何になると云う了見《りょうけん》もなかった。
しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。
今から考えると馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。
ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなかったようだ。ただ手車《てぐるま》へ乗って、立派な玄関《げんかん》のある家をこしらえるに相違《そうい》ないと云った。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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