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Benjamin Franklin ベンジャミン・フランクリン


Benjamin Franklin ベンジャミン・フランクリン
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
「われわれが、他人の発明をおおいに利用できるのだから、われわれもまた喜んで、自分の発明をほかの人々の役に立たせるべきである。
私は、世の人々が、私の発明を受け入れてくれることで利を得ようとは思わない。
それらの発明によって、少しでも利益を得たこともなければ、そうするつもりもない。」
ベンジャミン・フランクリンがこのように語ったのは、1742年のことだった。
科学と発明をもって人の役に立とうという哲学は、今日でも、アメリカでの科学の歩みに影響している。
フランクリンの科学に対する実用的な姿勢は、彼が太陽熱を研究した初期の実験に、よく現れている。
彼は、さまざまな色の布切れを使って、色が暗いものほど多くの熱を吸収することを突き止めた。
色が明るいほど熱を反射する。
2世紀以上も前に、この結果を発表するにあたり、彼は次のように言った。「このことから、暑い、日ざしの強い気候では、黒い服よりも白い服を着るほうがふさわしいことがわかる。
夏の帽子は、男性用も女性用も、暑さをおさえるため白にするべきである。」
この忠告を、世界中の何百万もの人々が受け入れるまでには、約1世紀かかった。
これは、フランクリンが、自分の観測と実験から得た事実を、実用的に使いたいという願いに基づく貢献のほんの一例である。
この願いが、彼を科学者よりは、むしろ発明家にふさわしくしたのである。
フランクリンには、発明家としての素質が多く備わっていた。
おおいなる好奇心、広い関心、機械いじりの才、仕事を最後までやり通す根気、そして実際的な人生観などである。
だが、それにも増して、人々の役に立つように、科学を応用させようという観念を持っていたのである。
一つの例を挙げると、彼が21歳で、フィラデルフィアに住んでいた時に結成したクラブがある。
それは、毎週会合を持つディスカッション・グループだった。
その会合では、各メンバーが、科学、政治、文学、または哲学の分野で問題を提起し、グループ全員がそれについて意見を交わすのだった。
フランクリンが、新メンバーに要求した約束には、彼の社会観がはっきりと現れている。
彼は、同胞を、自分の宗教、職業を問わずに愛すること、だれも自分の意見を言ったことにより傷つけられないように注意すること、真実のために真実を愛し、公平な態度で真実を追求して、それをほかの人にも伝えることなどを約束させた。
このようにして、ベンジャミン・フランクリンは、21歳の時、この新しい国、アメリカで、いろんな未開拓の分野の知識に手を染め始めたのである。
同じころ、彼に大きな財産をもたらすことになった印刷業を始めた。
その後20年間、彼の事業は、フィラデルフィアで栄えた。
42歳になったころには、すでに引退できるほど、裕福になっていた。
それから彼は、公事、私事へと関心を移した。
彼が公事で果たした-特に独立戦争におけるものであるが-偉大な役割の記録は、そのまま、アメリカ合衆国誕生期の話になるのである。
しかし、今ここで問題にしたいのは、フランクリンのもう一つの話、科学者としての面である。
フランクリンは、自分の多くの実験から実用的な結果を求めていたにもかかわらず、彼は、自分の科学的意見を弁護するために、公にほかの科学者と議論することはなかった。
彼は所信を書くに際し、こう述べている。「これらの意見は、世の中の成り行きに任せてみたい。
もし正しければ、真実と経験がそれを支持してくれるだろう。
もし間違っていたら、そのように証明されて破棄されるべきだ。」
フランクリンの科学における努力からおもに恩恵を受けたのは、彼の後の世代の人々であった。
例えば、彼の電気の分野における実験-特に凧と稲妻の冒険-は、たぶん最も有名だろう。
これらの実験で、彼は絹と布をこすり合わせて人工的に作る電気と、夏の雷雨の時に発生する自然の稲妻との関係を調べようとした。
このようなあらしの中で凧を飛ばすことによって、彼は、凧糸に結びつけられた金属に電気を誘導することができた。
この自然の火花と人工の電荷とを比べることによって、フランクリンは、電気の正体と稲妻の類似点を証明することができた。
実験者であり、科学的事実を実用化するフランクリンは、この発見を直ちに利用できる重要な使い道に気づいた。
家、納屋やほかの建物を、雷による火事や破壊から守ることはできないのだろうか。
稲光をコントロールすることは、できないのだろうか。
これらの考えに刺激され、フランクリンは、1752年に実用的な避雷針を作り出した。
それは、家の屋根に絶縁物質を使って取り付けられた、垂直の金属棒であった。
この棒に、地面まで届くワイヤーを取り付けた。
もし雷が家に落ちても、それは、一番伝わりやすい道、つまり棒とワイヤーを通って地面へ届いた。
建物のほかの部分には、傷はつかない。
フランクリンの発明のニュースが伝わると、多くの人がそれを取り入れた。
その後もフランクリンは、活動的な生活を送った。
科学実験の記録を増すと同時に、その時代に起こっていた自由と人権を守るための争いにも、大きな役割を演じた。
そして1776年、植民地アメリカが独立への戦いを始めた時、フランクリンは、アメリカ最初の大使としてフランスへ行った。
フランスでの9年間の滞在中に、彼はヨーロッパの科学者と親交を結んだ。
彼はまた、空を征服しようとする人々の初期の研究にも興味を持ち、水素気球の最初の飛行も見た。
"フランクリンは、常に絶え間ない科学の進歩を確信していた。
彼が描いた未来とは、1790年、死の直前、彼が84歳の時に語ったことばにはっきりと現れている。「科学の速い進歩を見ると、私は、早く生まれすぎたのではないかと残念に思う。
1,000年の間に、人間の力がどれくらい物事を克服できるかを想像するのは、不可能である。
われわれは、物を運ぶために引力を克服して、大きな物体を持ち上げることができるようになるかもしれない。
農業においては、労働力を減らして、生産を倍にすることも可能かもしれない。
そして病気も、確かな方法で、予防をしたり、治療したりでき、われわれの命を延ばすこともできるかもしれない。」
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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