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Eli Whitney(1) イーライ・ホイットニー


Eli Whitney  イーライ・ホイットニー
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
アメリカ史上で、1860年代の南北戦争前の南部を綿が支配したほど、1つの作物がある地方を支配したことはない。
もしこの事態がだれによるものかと考えるならば、それはイーライ・ホイットニーと言えるだろう。
このような大規模な綿生産は、コットン・ジン(綿繰り機)という種から綿繊維を分離する機械がなくては、全く不可能だったろう。
イーライ・ホイットニーは、19世紀の始まる少し前に、この機械を発明したのである。
コットン・ジン(「ジン」は「エンジン」ということばを短くしたもの)だけがホイットニーの発明だったわけではない。
そっくり同じ形で交換のできる銃の部品を作ったことで、彼は、大量生産という製造方法開発の先駆者でもあった。
この発明は、国の工業成長にたいへん重要なものとなった。
だが彼の工業への最初の貢献は、コットン・ジンだった。
これは、南部の経済と生活を全く変えることになった。
しかしホイットニーは、アメリカ南部の出身ではなかったのだ。
彼は、北東部のマサチューセッツ州の出身で、1765年に生まれた。
ホイットニーが生まれた年は、その後独立戦争にまで発展した革命的な動きが、植民地アメリカで始まったころだった。
そのような不安のニュースは、ボストン市から40マイル離れたホイットニー家の農場にも届いた。
ホイットニー家は、何世代も続く農家だった。
だが若き日のイーライは違った。
何年も後、イーライの姉エリザベスは、彼との子ども時代の思い出を書いた。
彼女は、イーライが、農業以外のことに関心を持っていたようだと記した。
彼女は述べている。「私たちの父は、作業場を持っており、そこで時折、いろいろな種類の車輪を作っていました。
父は旋盤とたくさんの工具を持っていました。
弟は、小さいころからそれらを使うことを覚え、一時もむだにしませんでした。
工具の使い方を覚えると、彼はいつも作業場で何かを作っており、畑での仕事は、あまり好きではありませんでした。」
息子が畑仕事をやるよりも、父親の作業場で何かを作りたがるというのは、特に珍しいことではないかもしれない。
しかし、まもなく若きイーライは、ただの機械工だけではないことが明らかになってきた。
彼は製造業者になっていった。
例を挙げると、独立戦争の時代であり、釘は高い値をよんでいた。
姉のエリザベスによると、イーライは父に炉を作ってもらい、釘や小さな工具の製造を始めた。
「私が覚えている限り、」エリザベスは書いている。「彼が釘を作り始めて二冬日だったと思いますが、私にある計画を打ち明けてくれました。人を雇い、自活し、仕事から利益をあげようというものでした。
夜になると、彼は近くの町に用があるからと偽り、父から馬を1頭借りる許可を得ました。
彼は朝早く起きると、3日も留守にしました。」
若いホイットニーはもどると、人を雇ったが、その男は次の週到着すると伝えた。
イーライの父は、息子の事業に賛成し、一生、彼の成功を誇りと興味をもって見守った。
独立戦争が終わり、釘の需要が減ると、イーライは、彼の炉を活用させることのできるものを探した。
彼は、婦人たちがリボンで帽子を結ぶことをやめ、細い鋼のピンを使って髪にとめていることに気がついた。
そこで、彼は帽子のとめピンの製造を始めた。
後に、彼は熱い金属を細長いピンにするこの方法を、コットン・ジンのワイヤー歯を作る際に利用した。
しかし、コットン・ジンの発明は、まだ10年先のことで、若いホイットニーの考えは、まだ発明することには及んでいなかった。
18、9歳のころから、彼の関心は、教育を受けることに集中していた。
彼は、ほとんど金がなかったにもかかわらず、1789年には、コネチカット州、ニューヘブンにあるエール大学に入学し、3年後に卒業した。
エールを出ると、すぐに彼はジョージア州の教師の口を引き受けた。
彼はニューヨークの港で客船に乗り込み、東海岸沿いにサバンナ市へと下った。
これは、運命の旅だったのだ。
船の中で、彼は裕福な未亡人のキャサリン・グリーン夫人と、彼女の事業を管理しているフィニアス・ミラーに出会った。
ホイットニーは、ジョージア州に着くと、教師の職を断ることにした。
その代わりに、彼はグリーン夫人の子どもの家庭教師として、サバンナから数マイルのところにある、彼女の大農園で働くことを引き受けた。
その後数か月間、ホイットニーの父や友だちは、彼からほとんどなんの連絡も受けなかった。
彼は、自分が元気であること、そして、次のように周りの様子を伝える短い手紙を何通か書いただけだった。「私が観察した限りでは、ここらへんで栽培されている主要作物は、米、トウモロコシ、ジャガイモぐらいのようです。
この地方は、冬と春にはほんとうに気持ちのよいところです。」
この時、彼は、南部でわずかしか綿が栽培されていないことにも気づいていた。
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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