※本文をクリック(タップ)するとその文章の音声を聴くことができます。
右上スイッチを「連続」にすると、その部分から終わりまで続けて聴くことができます。
※ "PlayBackRate" で再生速度を調節できます。
Eli Whitney(2) イーライ・ホイットニー
Eli Whitney イーライ・ホイットニー
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
約1年たったころ、ホイットニーは、やっと彼の父に、自分が何を考えているかを書いた。「私は、綿を種から分離するのが、とてもむずかしいということを何度も聞きました。
グリーン夫人のところでは、多くのりっぱな人たちが、綿を素早く分離することができる機械が発明されれば、国にとっても発明家にとってもすばらしいことだと、皆言っています。」
"織物工業における新しい発明や、製造方法は、綿栽培を促進するきっかけを作った。
しかし、この地方で育つ、ただ一つの種類は、繊維が短く、種が緑色のものだった。
じょうぶな小さな種が綿にあまりにもしっかりとついているため、1ポンドの繊維を3ポンドの種からより分けるには、1人の人が10時間もかかった。
グリーン夫人の大農園で、ホイットニーは、1793年初めに、種を素早く綿から取り除く機械を発明した。
綿は、先が曲がったワイヤー歯のついたいくつかの円筒によって、ワイヤー・スクリーンを通された。
そして回転ブラシが、回っている円筒についたものを取り除いた。
ホイットニーの最初のコットン・ジンは、手動で、これによって1人で綿を分離できる量は、昔の方法の50倍にもなった。
その後の水力を使うようになった型は、1日に300から1,000ポンドも生産することができるようになった。
これで、広大な南部の未開地を利用することが可能になったのである。"
資金を調達してくれたフィニアス・ミラーと協力して、ホイットニーは、コネチカット州のニューヘブンにもどると、コットン・ジンの製造を始めた。
まず初めに、彼の新しい発明の権利を守るために、特許を取らなければならなかった。
ペンシルバニア州のフィラデルフィアへ行くと、彼は、そのころ国務長官であったトマス・ジェファーソンに特許の申請をした。
そこで彼は、作業場を作り、熟練工を雇って、材料を仕入れ、彼の機械の細部を改良した。
そして、やっと1794年3月、彼は父に手紙を書いた。「私は、すべて私の望むとおりに成し遂げました。
多くのアメリカの第一線の人々が、私の機械は、今までわが国で発明されたもののうちで、最も完璧で価値のあるものだと言ってくれましたので、満足しています。」
ホイットニーのコットン・ジンは、確かに農場主たちのあらゆる期待にこたえるものだったが、不幸なことに、ホイットニーやミラーにとっては、そうならなかった。
ジンのデザインは、許可や使用料なしにコピーされ、南部一帯で使われてしまった。
綿は、作物の王者となり、生産は、年に何百万ポンドにも及んだ。
しかし、ホイットニーと彼のパートナーにとって、その後の数年間は失望、発明を守るための相次ぐ訴訟、そして経済的困難の日々であった。
しかしホイットニーは、一生を望みのない夢を追って過ごすような男ではなかった。
彼は、1798年に、財務長官に手紙を書いた。「議会の討論によりますと、政府は、武器を購入するために予算をとっていられる様子です。
私は1万から1万5千組の武器を製造したいと考えております。」
それまで、これらの武器は、一つ一つ手で作られており、ホイットニーが提案したような数を作ることは、考えられないことだった。
しかし政府は、当時フランスとの戦争が起こることを心配しており、ホイットニーに銃を製造させる契約を結んだ。
そして、これだけ多くのものを作るために、彼は、全く新しい製造方法を発明した。
ホイットニーの計画とは、銃の部品を、どの銃のものでもそっくり同じに作ることができる工作機械で作ることだった。
部品は交換が可能で、素早く組み立てられなければいけない。
しかし、そのようなことができる工作機械は、まだ発明されてはいなかった。
そこで、ホイットニーは、それを自分で設計して作らなければならなかった。
その中でも重要なのは、金属を正確な寸法に切ることができるフライス盤だった。
この機械はあまりにも効率がよいので、1世紀半もの間改良されることがなかった。
ホイットニーが政府との契約を満たすまでには、ちょうど10年かかった。
この10年は、集中的な努力と、製造方法を改良するための絶えまない苦心の年月だった。
彼は、友だちに悲しげに書いた。「私はひとりぼっちで、連れ合いもなく、友だちもほとんどいないということになるでしょう」
1821年には・・・死ぬ4年前であるが・・・彼は過去4半世紀間の業績を振り返り、自分の製造方法の優越性が認められていることに満足することができた。
彼は51歳の時にやっと結婚をし、1825年に死んだ時には、彼の事業を引き継ぐ息子を1人残した。
イーライ・ホイットニーは、生きている間に、彼の仕事が、どれだけアメリカ史に大きな影響を与えたかを知るすべはなかった。
コットン・ジンによって、彼は、南部の経済を綿で成り立たせた。
これが、奴隷をもっと必要とし、このことが、1861年の南北戦争の直接の原因となったのである。
同時に、彼の製造方法は北部の工業力の基礎となり、これがこの戦争で南部を負かし、合衆国を守ることとなったのだ。
以上が、釘や鋼の帽子のとめピンを作って生涯を始めた農家の少年が、歴史に与えた貢献である。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America