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Walter Reed ウォルター・リード


Walter Reed ウォルター・リード
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
「私が20年間祈っていた祈りが、なんらかの方法で、いつか、人類を苦しみから救いたいという祈りがかなった。」
このことばは、ある人が1つの科学の発見をしたことを喜んで、妻にあてて書いたものである。
この人はウォルター・リードであり、彼と彼とともに仕事をしていた人々の努力のおかげで、人類は、恐ろしい黄熱病を恐れることはなくなった。
今では、この病気の源を支配することができる。そして、そのかぎは、キューバのアメリカ陸軍医師のリードによって、20世紀初めに発見された。
彼の伝記作家によると、もしウォルター・リードが、当時の医者の問で習慣になっていたように、あごひげをはやすことができたら、田舎の医者として一生を送ったかもしれないという。
リードが1869年に開業したころ、彼はまだ21歳にもなっていなかった。
彼には、りっぱなひげがなく、バージニアの彼の故郷では、だれもこの若者を信用しなかった。
その結果、彼は医者としては、ちっとも成功しなかった。
がっかりしたリードは、再び故郷をあとに、ほかの学位を取るために医学校へもどり、その後ニューヨーク市の病院に勤めた。
1875年、若いリード医師は、アメリカ陸軍の医療部隊に入隊し、18年間、国中の軍基地で働いた。
このころは、まだ未開な西部を開拓している時期だった。
医師が少ない西部での経験は、彼にどんな緊急事態にも対処できる能力を授けた。
その後東部へ移されると、メリーランド州ボルティモアにある、有名なジョンズ・ホプキンズ病院の近くに駐在し、ここで医学の勉強を続けることができた。
この高度な医師教育のおかげで、リードはワシントンD.C.にできた、新しい陸軍医学校のスタッフに加えられた。
彼の専門は、バクテリアによって起こる病気だった。
1898年、陸軍キャンプで急に腸チフスが流行すると、リードは、これを食い止めるグループを率いるよう命じられた。
彼は研究に1年以上要し、ごく普通のイエバエが危険な病原菌の媒介体であることを証明した。
彼はまた、腸チフスが接触によって、あるいは感染した服や食器を通じて、人から人へうつることも発見した。
このころ、1900年には、また別の病気で死者がでていた。黄熱病である。
この病気はキューバを襲い、何千人も殺したが、その中にはキューバ共和国をつくるために駐在しているアメリカ兵もいた。
「イエロージャック」と呼ばれたこの熱病は、あらゆる階級の人を襲った。清潔な人も不潔な人も、金持ちも貧乏人も、兵士も民間人もである。
死中に活を求めて、キューバのアメリカ軍の指揮官は、ウォルター・リード医師を呼んだ。
リードは、亜熱帯地方の夏の暑さの中、病気流行の絶頂に到着した。
彼は、すぐに仕事にかかった。
陸軍に新しく設置された黄熱病委員会の委員長として、リードの使命は、「黄熱病の原因と予防に関する問題に重点を置くこと」であった。
委員会には、彼以外に3人の医師がいた。
その一人はジェシー・ラジーア医師で、細菌学の権威だった。
協力して、この病気の原因となる病原菌を捜したが、見つからなかった。
その時リードは、あるキューバ人医師が以前唱えた、黄熱病の原因は蚊であるという説・・・だれも信じようとしなかった説だが・・・を思い出した。
リードは、この理論を調べてみることにした。
蚊の卵が集められ、何百匹もの蚊が委員会の手によってかえった。これらの蚊は病院に持ち込まれ、黄熱病患者をさした。
その後、研究チームからの志願者は、自分をその蚊にかませてみた。
思ったとおり、彼はすぐにひどい黄熱病になったが、徐々に治った。
ほかの志願者で、2度日のテストが行われたが、彼もまた黄熱病になり治った。
だが、3度目のテストを行っている時、悲劇が起こった。
ラジーア博士が、間違って蚊にかまれ、黄熱病で倒れたが、今度は回復しなかったのだ。
リード博士は、ラジーア博士の死を非常に悲しんだ。
3つの実験では、蚊が黄熱病を媒介するという十分な証拠にはならなかったが、彼は、今や正しい方向に進んでいることを確信した。
上司への報告書に、リードは希望をもって記した。「黄熱病の病院にいる問に、ラジーア博士は蚊にかまれたので、この蚊が、以前患者をかんで感染していたという可能性を認めないわけにはいきません。
このような事故で起こった感染にも、関心を持たないわけにはいきません。」
この証拠をもとにして、次にリード博士は、独立した部屋を作って、志願者を感染した蚊にさらした。
リードは、これでキューバ人医師の理論が正しかったことを証明したと確信した。
彼は、このすばらしいニュースを妻に知らせ、こう書いている。「喜んでくれ。
ジフテリアの抗毒素と結核菌の発見に次いで、黄熱病の原因究明は、19世紀で最も重要な科学的発見と見なされるだろう。」
しかし、リードの仕事は、まだ終わってはいなかった。
彼は、「イエロージャック」が、ほかのどの方法でも、病気がうつらないことを証明しなければならなかった。
幾晩も、勇気のある志願者は、黄熱病で死んだ人々の毛布と服を着て寝た。
だが、あの小さな部屋の窓には網が張ってあったので、熱病にかかった者は一人もいなかった。
これで、証明は決定的となり、リードは自信を持って結果を報告した。「洋服から黄熱病がうつるという考えは、人を使った実験によって、すぐにも打ち消されました。
黄熱病のある建物の中で感染するのは、黄熱病患者をかんだ蚊がいるからです。」
リードは黄熱病の病原菌を見つけることはできなかったが、媒介体を見つけた。
彼の研究が発表されると、衛生係員がその地帯の蚊を処分した。これがたいへん効果的に行われたため、90日後には、黄熱病は姿を消した。
キューバでは、200年の歴史上、初めて黄熱病が全くなくなった。
そしてほかの地区でも、蚊の繁殖地を破壊することを覚え、何世紀も「イエロージャック」に悩まされた都市や港が、この恐ろしい病気から解放された。
その後25年間で、黄熱病は、世界中でコントロールできるようになった。
今日では、ごくわずかな地域だけが、まだこの病気に脅かされている。
しかしウォルター・リードは、この熱病が、地球上からほとんどなくなるのを生きて目撃することはできなかった。
1902年、蚊との戦いに勝ったあと2年もたたないうちに、51歳の彼は盲腸炎で世を去った。
彼は、裕福であったことはなく、またそうなりたいとも思わなかったのだが、死ぬ間際には、家族に十分なものを残せないことを感じていた。
「何も残してやれない。」彼は残念そうに言った。
しかしウォルター・リードは、世界に貴重な贈り物を残した。恐ろしい病気からの解放という贈り物を。
今日、ワシントンにある大きな病院には、彼の名前がつけられ、アーリントン国立墓地にある彼の墓には、次の碑文が刻まれている。「彼は、人類に黄熱病という恐ろしい病気を支配する力を与えてくれた。」
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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