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The Adventures of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの冒険

A Case Of Identity 花婿失踪事件 6

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
 その頃、私がひとりの重篤な患者の治療に専念していたこともあって、翌日はずっと病床に付きっきりであった。
六時頃になってようやく身体が空いたので、何とかハンソム馬車に乗り込んで、ベイカー街へ駆けつけるなか、あの小事件の解決の手伝いには間に合わぬやも、と半ばそわそわしていた。
しかし着いてみればホームズはひとりうとうとして、その痩身長躯を肘掛椅子の奥へと畳み込んでいる。
おびただしく並べられた瓶に試験管、そして塩酸のきつい刺激臭が物語るのは、彼が一日じゅうご執心の化学実験をやっていたということだ。
「どうだね、解けたかね。」と私が入るなり訊ねると、
「うむ、酸化バリウムの重硫酸塩だ。」
「違う違う、事件の謎だよ!」と私が叫ぶと、
「ふむ、あれか! 今取り組み中の塩《えん》のことかと。
あの案件に謎など何もありはしない。だが昨日も言ったように、細部のいくつかには関心がある。
唯一の欠点は、どうもその悪党を扱える法がないことだ。」
「ほう、そいつは誰だね、サザランド嬢を捨てた真意と言うのは?」
 私が疑問を口から出すが早いか、そしてホームズが返答しようと唇を開ききらないうちに、廊下から重い足音、そして扉を叩く音が聞こえてくる。
「あの娘の義父、ジェイムズ・ウィンディバンクだ。」とホームズ。
「六時には行くと返事を寄越した。お入りを!」
 入ってきた男は体格のいい中背の人間で、年は三〇前後、髯はきれいに剃られているが顔色は悪く、物腰は穏やかでへりくだるようでいて、灰色の瞳は驚くほど鋭くとげとげしい。
私たちをそれぞれ疑わしげにちらちらと見やってから、すり切れた山高帽を横棚に置き、軽く会釈をして手近の椅子ににじり寄って座る。
「こんばんは、ジェイムズ・ウィンディバンクさん。」とホームズ。
「このタイプ打ちの手紙はあなたからのものですね、これによると、六時にご面会の約束をと。」
「そうです。少し遅れはしまいかと心配しましたが、どうも多忙で身体が自由になりませんもので。
サザランドさんが些細なことで煩わせまして申し訳ありません。人前で内輪の恥をさらすことなどしない方がまったく賢明ですからな。
娘がここに来ることはまったく私の意に反することなのですが、あの通りカッとなったらすぐ動いてしまう性質《たち》で、これと決めたら手の着けようがないのです。
まあ幸い、あなたが警察官憲とご関係がないから私としてもさほど構いはしませんが、このような家庭の災難など外へ言いふらされるのは愉快ではありません。
その上、無用の出費ですよ、そうでしょう? そのホズマ・エインジェルなど見つけようもないでしょうに。」
「それどころか、」とホームズの静かな声。「ホズマ・エインジェル氏はうまく見つかるとしか思えない状況なのです。」
 ウィンディバンク氏はぎくりとして、手袋を取り落とした。
「喜ばしい話ですな。」
「不思議なことに、」とホームズが切り出す。「タイプライターも人間の筆跡同様、個々によってまったく異なるものなのです。
新品でない限り、ふたつとまったく同一のものはありません。
ある文字が他より摩滅していたり、片側だけ摩滅したり。
さてこのあなたの短信に打たれた文字ですが、ウィンディバンクさん、毎回この『e』の上がどこかやや不鮮明で、なおかつ『r』の尻尾がわずかに欠けています。
他にも一四の特徴がありますが、この二つが他よりわかりやすい。」
「手前どもは職場がこの器械ひとつですべての通信をやっておりますので、きっとそれで少し摩滅しているのかと。」と客は答え、その小さな目を光らせて、ホームズを鋭く見やる。
「時に、あなたに実にまさしく興味深い研究というものをお見せしましょう、ウィンディバンクさん。」とホームズは続ける。
「僕はこのところ、別のささやかな論文を書こうと考えてまして、それはタイプライターとその犯罪との関係についてです。
今ちょっと関心を注いでいる題材なのです。
ここにあるのが、失踪した男から来たとされる四通の手紙。
みなタイプ打ちされている。
いずれもeが摩滅しrの尻尾が欠けているだけでなく、拡大鏡をお使いになればおわかりになりますが、先ほど触れました他の一四の特徴も同様にあるのです。」
 ウィンディバンク氏は椅子から跳び上がり、帽子をつかんで、
「そんなおとぎ話で無駄にする時間はありません、ホームズさん。」と言い、
「その男を捕まえられるのなら、捕まえたらいいでしょう。やってのけてから知らせてください。」
「確かに。」とホームズは歩いていって、扉に鍵を掛ける。
「ではお知らせします。その男を捕まえました!」
「何! どこだ!」とウィンディバンク氏は叫び、唇を真っ青にして、罠にかかった鼠のように身の回りを見まわしている。
「ええ無駄です――無駄なのですよ。」と穏やかなホームズ。
「もう逃げられません、ウィンディバンクさん。
すべてお見通しなのです。挨拶としてはよくありません、こんな単純な問題を僕に解けないと言うなんて。
よろしい! 座りたまえ。この件について話し合いましょう。」
 客人は椅子に崩れ落ち、死んだような顔をする。額には冷や汗が光っており、
「う――訴え出ることなどできんぞ。」と小声で言う。
「そのことは僕としても実に残念です。
しかしここだけの話、ウィンディバンクさん、これほど残酷で身勝手で心のない、ちゃちなごまかしに出会ったのは初めてです。
さて、事の次第を一通り語らせてもらいましょう。間違っていたら反論するといい。」
 男は椅子の上に縮み込んで、頭を胸に沈めたため、まるで押しつぶされた人間のようであった。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Asatori Kato, Yu Okubo
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