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Sherlock Holmes Collection シャーロック・ホームズ コレクション

A Study In Scarlet 緋色の研究 第二部 第七章 1

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
 我々は揃って木曜に下級判事の前へ出るよう知らされていたが、結局木曜が来ても証言することはなかった。
事は天上の判事が引き受けることとなり、ジェファースン・ホープは裁きの場へと召し出され、そこで厳正なる正義が男へと割り当てられたのだ。
逮捕されたその日の夜、動脈瘤が破裂し、明くる朝、男は独房の床にのびているのを発見された。顔には穏やかな笑みを浮かべており、死に際して悔いのない人生と果たした使命のことを振り返ることができたかのようだ。
「グレグソンとレストレードはこの死に大わらわだろう。」とは、その夜ふたりでくつろいでいるときのホームズの言葉だ。
「彼らの大々的発表は今やどこへやらだ。」
「捕り物には大して関わってないふたりなのにか。」と、それを受ける私。
「この世では、実際の行為など取るに足らぬもの。」とわが同居人の手厳しいお答え。
「要は、何を自分の手柄だと人に信じさせられるかだ! 
まあ……」と間を入れてから楽しそうに続ける。
「いずれにせよ僕は捜査できればそれでいい。
知る限りで最高の事件だった。
単純でありながら、実に得るところが複数あった。」
「単純とな!」と私の口をついて出る。
「ああそうとも、他に表現のしようがない。」とシャーロック・ホームズは驚く私に微笑んでみせる。
「元より単純だった根拠に、ごく普通の演繹数回のほか何にも頼らず、僕は三日以内に犯人を捕まえてみせたろう?」
「それは確かに。」と私。
「すでに説明したが、普通から外れたものこそ、妨げ以前にまず道しるべとなる。
この種の問題を解く際、大事なのは過去へ遡る推理ができることだ。
これはコツのようなもので簡単なのだが、うまく使う者がまずもっていない。
現世の日々細々したことでは、未来を先読む推理がそれ以上に役立つため、さきほどのものは自然疎かにされるわけだ。
総合推理のできる者が五〇いれば、分析推理のできるものはひとりいるだけ。」
「正直、」と私。「いささかついていけないね。」
「君ができるとも思っていない。ひとつ、わかりやすくなるかやってみよう。
大半の人間は、物事の流れを説明してやれば、最後がどうなるか言い当てられよう。
頭のなかでそれら物事をまとめあげて、そこから筋の通るところを論じられる。
しかしながら結果を告げられて、その果てまでの過程がいかなるものなのかを、おのれの内なる知性から導き出せる人間はそういない。
この能力こそ遡る推理、僕が分析推理と口にしたときに意図していることだ。」
「なるほど。」と私。
「さて今回はまさに、結果だけが与えられ、その他すべてを自力で見いださねばならぬ例であった。
ここでひとつ試みに僕の推理過程を逐一示していこう。
始まりから始めてみると。
知っての通り、僕は徒歩で現場の家屋に近づいたが、これはただ何となくではなくまったく真面目そのもの。
当然手始めに車道を調べたわけで、そしてそこには以前君に説明したように馬車の轍がありありと見える。聞き込みで確認したが、夜間ずっと馬車がそこにあったに相違ない。
それが辻馬車であって個人所有の馬車でないと悟ったのは、轍の幅が狭いからだ。
普通ロンドンの辻四輪はお歴々の箱四輪よりも極めて幅狭である。
 これが糸口としてつかめたもの。
そのあと前庭の小道をゆるやかに進む、するとたまたま粘質土でできていたため痕跡を見るにはうってつけだった。
きっと君にはただ一列に踏みつけられたぬかるみに思えたことだろうが、僕の鍛えた目にはその表面についた跡のひとつひとつに意味がある。
足跡の型を見て取る技術ほど、重要な割に見逃されがちな探偵学の分野はない。
幸い、僕はかねがね大変重きを置いているので、反復実践からもはや癖として染みついている。
お巡りどもの足跡は見た目深くとも、それより先に庭を抜けた二名の足跡がわかる。
他より早くにあったと容易く言い得るのは、所々それら跡が、やってきた別人によって上からすっかり消されていたからだ。
このようにしてふたつ目の輪ができた。ここから読み取れることは、夜間の訪問客の数は二、ひとりは目立つ背丈(これは歩幅から見積もった)、もうひとりはブーツの残した小さく上品な形から判断するに当世風の装い。
 現場に入ってすぐ、この今の推論の裏が取れた。
上等のブーツを履いた男が目の前に倒れていた。
とすれば、背高の男が犯人だ、人殺しがあったとすればだが。
死んだ男の身体に外傷はなく、顔の歪んだ形相は、降りかかるおのれの定めを直前に悟ったものと見える。
心臓病が死因あるいは突然の自然死の場合には、表情が歪んで見えることなど万にひとつもない。
死体の口元をかいだところ酸いにおいがかすかに認められ、ここで僕は無理矢理毒を飲まされたのだという結論に至る。
また、強いられたことは顔に表れた憎悪と恐怖からも言い得る。
排他的選言によって、僕はこの結果に辿り着いていた。他の仮説は事実に合わないのだ。
前代未聞の思いつきなどとは思わぬよう。
毒を巧みに飲ませることなど犯罪史においては目新しいことでもない。
オデッサのドルスキィ事件やモンペリエのレテュリエ事件が毒物に詳しい者ならすぐに思い浮かぶだろう。
 さてここで大きな疑問、〈何故か〉が現れる。
殺人の目的は強盗でない、なぜなら何も盗られていない。
それなら政治運動、あるいは女のためか。
それが僕の直面した疑問だった。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo
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