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The Adventures of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの冒険

The Man With The Twisted Lip 唇のねじれた男 1

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
 アイザ・ホイットニ、聖ジョージ神学校校長で亡きイライアス・ホイットニ神学博士の弟君であるが、そのころは阿片に溺れていた。
この悪癖が身に付いたのは学生時代のちょっとしたおふざけかららしい。ド・クインシの書いた夢や興奮を読んで、試しに煙草を阿片丁機に浸してみると、同じ効果が得られたというわけだ。
だが多くのものの例に漏れず、始めるのは易しいがやめるのは難しいとやがて気づき、長年のあいだ薬の奴隷となりつづけて、友人や親類から、恐れと哀れみの入り交じった目で見られるのだった。
当時の本人から見て取れるのは、血の気の失せた土気色の顔に、垂れ下がった瞼、開ききった瞳孔で、椅子に座ったまま身体を丸める姿は、落ちぶれた上流の人間そのものであった。
 ある晩――八九年の六月のことだが――我が医院の呼び鈴が鳴った。おおよそ人が欠伸でも始め、時計でも見やるような時刻のことだった。
私は椅子から身を起こし、妻の方はその針仕事を膝の上に置いて、いささかやれやれという顔をした。
「患者ね!」と妻が言う。
「お出にならなきゃ。」
 私はうなった。一日たっぷり仕事にいそしんで、帰ってきたばかりなのだった。
 扉の開く音が聞こえ、早口の言葉と、そのあとリノリウムの床をせかせかと歩く音。
今いる部屋の戸が開け放たれると、喪服に黒い面紗という装いの女性が室内に入ってきた。
「夜分遅くに申し訳ありません。」というと、女性はそこで緊張の糸が切れたのか、私の妻に飛びつくと、首に手を回しながら肩を震わせ咽び泣く。
「もう、私には無理!」と叫び、「少しでいいから力を貸して。」
「まあ。」と妻はその女性の面紗をめくって、「ケイト・ホイットニじゃないの、驚いた。ケイト、
誰が入ってきたのかと思ったら。」
「どうしたらいいか分からなくて、それでまっすぐあなたのところへ。」
いつものことだった。
困ったことがあると、人は妻のところにやってくる。灯台に集まる鳥のようだ。
「いつでも大歓迎よ。
まずはワインとか水でも口にして、腰を下ろして落ち着いたら、事の次第をお話ししてね。
ジェイムズには先に寝ててもらった方がいいかしら?」
「あっ、違うの! お医者さまの助けも必要なの。
アイザのことで。もう二日も家を空けてて。もう心配で心配で!」
 これが初めてではなかった。この女性が厄介な夫の相談を持ち込んでは、私は医者として、妻は昔からの友人として学友として、その話を聴くのであった。
私たちは思いつくだけ言葉をかけて、その女性をなだめた。
夫の居場所を知っているのだろうか。
そして連れ戻してほしいということだろうか。
 どうやらその通りらしい。
近ごろ発作を起こすと、中心区の東端にある阿片窟を利用する。客人によれば間違いないということだ。
これまでは耽るにしても昼のうちだけというのが常であって、夜になると、たとえ震えてがたがたしていても帰ってくるのだという。
だが今回はまる二日も過ぎており、さだめし波止場の屑連中に混じって寝そべりながら毒を吸っているか、その効き目で眠ってしまったというところだろう。
何でもアッパ・スウォンダム横町にある「金の延べ棒」という場所で見つかるはずとのことだった。
だがわかったとして、ご婦人に何ができようか。
若くてか弱きお方に、そのような場所へ踏み込み、ごろつき連中を尻目に夫を捜して引きずり出すなど、どうしてできようか。
 事情があるのだから、無論その場合、道はひとつしかない。
ご婦人をそのような場所へお連れするわけにもいかず、
そもそもご婦人本人が行く道理もない。
私がホイットニの主治医なのであり、それゆえに私ならば言うことも聴いてくれよう。
むしろ私ひとりの方がやりやすいというものだ。
そこで私はその女性に約束した。教えてもらった住所に夫がいるようなら、二時間とかからず自宅へ連れて行けましょうと。
そして一〇分ののち、私は肘掛椅子と心地よい居間をあとにして、ハンソム馬車を東へ急がせた。その時点でも妙なお使いだと思っていたが、そのあとの展開があれほど不思議なものになるとは、私はまだ知るよしもなかったのだ。
 事件も始まりの段階では、さほどややこしくもなかった。
アッパ・スウォンダム横町はいかがわしい路地で、波止場の集まる地区の裏手にあたる。テムズ川の北岸、ロンドン橋から東側へ伸びている区域だ。
安物の既製服を売る店と松脂の匂いがする酒場のあいだに、地下へと続く急な階段があり、洞窟の入り口のように暗い穴を抜けると、目的の阿片窟にたどり着ける。
私は馬車に待つよう言いつけて階段を下りていった。千鳥足で絶えず踏みつけられているせいか、段の中央部分がすり減ってへこんでいた。戸口の上で石油灯がちろちろとゆらめくなか、扉の掛け金を見つけ、中へと足を踏み入れた。そこは細長く続いた部屋で、茶色い阿片の煙が充満し、両側には寝台が二段に備え付けられていた。さながら移民船の一室だ。
 薄闇の向こうに、ちらちらとかすかに人の影が見えるだろうか。我を失い、妙な姿勢で寝そべっている。肩をだらんとさせ、膝を曲げ、頭を後ろにそらして、顎を上向きにしている。あちこちから、どんよりと濁った目が新入りに向けられる。
黒い人影のあるところからは、赤く丸い小さな光が、あるときは強くあるときは弱く、金属製の煙管を受ける皿で、阿片の燃える火が大きく小さくなっているのだ。
ほとんどの者が押し黙っていたが、なかには独り言をいうものもあり、妙に小声で抑揚もつけずに話すものもあって、いきなり会話が始まったかと思うと、出し抜けに黙りこくってしまい、お互い思い思いのことをつぶやくと、相手の言葉に耳を貸さなくなってしまう。
いちばん奥には炭を焚いている小さな火鉢があり、そのわきに、三本足の木の椅子に座ったひょろ長い老人がいて、両のこぶしの上に顎を載せ、肘を膝につけて、火のなかをのぞき込んでいた。
 私が入ると、血色の悪いマレー人の係員が、私用の煙管と薬を急いで持ってきて、空いている寝台へ案内しようとしたので、
「結構。吸いに来たのではない。」と私は言った。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo
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