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坊っちゃん 五 Botchan Chapter V (5)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
「そんな面倒《めんどう》な事情なら聞かなくてもいいんですが、
あなたの方から話し出したから伺《うかが》うんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。
それじゃこれだけの事を云っておきましょう。
あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。
ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊《たんぱく》には行《ゆ》かないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はそう率直だから、
まだ経験に乏《とぼ》しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書《りれきしょ》にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰《だれ》が乗じたって怖《こわ》くはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
 野だが大人《おとな》しくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫《とも》の方で船頭と釣の話をしている。
野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰《だ》れに乗ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。
また判然と証拠《しょうこ》のない事だから云うとこっちの落度になる。
とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等《ぼくら》も君を呼んだ甲斐《かい》がない。
どうか気を付けてくれたまえ」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。
わるい事をしなけりゃ好《い》いんでしょう」
 赤シャツはホホホホと笑った。
別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。
今日《こんにち》ただ今に至るまでこれでいいと堅《かた》く信じている。
考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励《しょうれい》しているように思う。
わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。
たまに正直な純粋《じゅんすい》な人を見ると、坊《ぼ》っちゃんだの小僧《こぞう》だのと難癖《なんくせ》をつけて軽蔑《けいべつ》する。
それじゃ小学校や中学校で嘘《うそ》をつくな、正直にしろと倫理《りんり》の先生が教えない方がいい。
いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、
世のためにも当人のためにもなるだろう。
赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。
清はこんな時に決して笑った事はない。大いに感心して聞いたもんだ。
清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「無論悪《わ》るい事をしなければ好いんですが、
自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。
世の中には磊落《らいらく》なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。
大分寒くなった。もう秋ですね、
浜の方は靄《もや》でセピヤ色になった。いい景色だ。
おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」
と大きな声を出して野だを呼んだ。
なあるほどこりゃ奇絶《きぜつ》ですね。
時間があると写生するんだが、
惜《お》しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。
 港屋の二階に灯が一つついて、汽車の笛《ふえ》がヒューと鳴るとき、おれの乗っていた舟は磯《いそ》の砂へざぐりと、舳《へさき》をつき込んで動かなくなった。
お早うお帰りと、かみさんが、浜に立って赤シャツに挨拶《あいさつ》する。
おれは船端《ふなばた》から、やっと掛声《かけごえ》をして磯へ飛び下りた。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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