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坊っちゃん 六 Botchan Chapter VI (1)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
こんな奴《やつ》は沢庵石《たくあんいし》をつけて海の底へ沈《しず》めちまう方が日本のためだ。
あれは持前の声をわざと気取ってあんな優しいように見せてるんだろう。
惚《ほ》れるものがあったってマドンナぐらいなものだ。
しかし教頭だけに野だよりむずかしい事を云《い》う。
うちへ帰って、あいつの申し条を考えてみると一応もっとものようでもある。はっきりとした事は云わないから、見当がつきかねるが、何でも山嵐《やまあらし》がよくない奴だから用心しろと云うのらしい。
それならそうとはっきり断言するがいい、男らしくもない。
そうして、そんな悪《わ》るい教師なら、早く免職《めんしょく》さしたらよかろう。
教頭なんて文学士の癖《くせ》に意気地《いくじ》のないもんだ。
蔭口《かげぐち》をきくのでさえ、公然と名前が云えないくらいな男だから、弱虫に極《き》まってる。
弱虫は親切なものだから、あの赤シャツも女のような親切ものなんだろう。
親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違《ちが》う。
虫の好かない奴が親切で、気のあった友達が悪漢《わるもの》だなんて、人を馬鹿《ばか》にしている。
大方田舎《いなか》だから万事東京のさかに行くんだろう。
今に火事が氷って、石が豆腐《とうふ》になるかも知れない。
しかし、あの山嵐が生徒を煽動するなんて、いたずらをしそうもないがな。一番人望のある教師だと云うから、やろうと思ったら大抵《たいてい》の事は出来るかも知れないが、――
第一そんな廻《まわ》りくどい事をしないでも、じかにおれを捕《つら》まえて喧嘩《けんか》を吹き懸《か》けりゃ手数が省ける訳だ。
おれが邪魔《じゃま》になるなら、実はこれこれだ、邪魔だから辞職してくれと云や、よさそうなもんだ。
向《むこ》うの云い条がもっともなら、明日にでも辞職してやる。
ここばかり米が出来る訳でもあるまい。どこの果《はて》へ行ったって、のたれ死《じに》はしないつもりだ。
ここへ来た時第一番に氷水を奢《おご》ったのは山嵐だ。
そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。
おれはたった一杯《ぱい》しか飲まなかったから一銭五厘《りん》しか払《はら》わしちゃない。
しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師《さぎし》の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。
清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中《かいちゅう》をあてにしてはいない。
おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。
こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、
返さないのは清を踏《ふ》みつけるのじゃない、清をおれの片破《かたわ》れと思うからだ。
清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶《あまちゃ》だろうが、他人から恵《めぐみ》を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。
割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有《ありがた》いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。
無位無冠でも一人前の独立した人間だ。独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊《たっ》といお礼と思わなければならない。
おれはこれでも山嵐に一銭五厘奮発《ふんぱつ》させて、百万両より尊とい返礼をした気でいる。
それに裏へ廻って卑劣《ひれつ》な振舞《ふるまい》をするとは怪《け》しからん野郎《やろう》だ。
あした行って一銭五厘返してしまえば借りも貸しもない。
おれはここまで考えたら、眠《ねむ》くなったからぐうぐう寝《ね》てしまった。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY