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坊っちゃん 六 Botchan Chapter VI (2)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
あくる日は思う仔細《しさい》があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。ところがなかなか出て来ない。
うらなりが出て来る。漢学の先生が出て来る。野だが出て来る。しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨《はくぼく》が一本竪《たて》に寝ているだけで閑静《かんせい》なものだ。
おれは、控所《ひかえじょ》へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握《にぎ》って来た。
おれは膏《あぶら》っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗《あせ》をかいている。
汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。
ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑《めいわく》でしたろうと云ったから、
迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。
すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱《ひじ》を突《つ》いて、あの盤台面《ばんだいづら》をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。
話さない事はたしかである。しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。
山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎《なぞ》をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。
元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬《しのぎ》を削《けず》ってる真中《まんなか》へ出て堂々とおれの肩《かた》を持つべきだ。
それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。
おれは教頭に向《むか》って、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、
赤シャツは大いに狼狽《ろうばい》して、君そんな無法な事をしちゃ困る。
僕《ぼく》は堀田《ほった》君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――
君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。
君は学校に騒動《そうどう》を起すつもりで来たんじゃなかろうと妙《みょう》に常識をはずれた質問をするから、
当《あた》り前《まえ》です、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。
すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼《いらい》に及《およ》ぶから、
よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。
君大丈夫《だいじょうぶ》かいと赤シャツは念を押《お》した。
どこまで女らしいんだか奥行《おくゆき》がわからない。
文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。
辻褄《つじつま》の合わない、論理に欠けた注文をして恬然《てんぜん》としている。しかもこのおれを疑ぐってる。
憚《はばか》りながら男だ。受け合った事を裏へ廻って反古《ほご》にするようなさもしい了見《りょうけん》はもってるもんか。
ところへ両隣《りょうどな》りの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。
部屋の中を往来するのでも、音を立てないように靴《くつ》の底をそっと落《おと》す。
音を立てないであるくのが自慢《じまん》になるもんだとは、この時から始めて知った。
仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛《でか》けた。
授業の都合《つごう》で一時間目は少し後《おく》れて、控所へ帰ったら、ほかの教師はみんな机を控えて話をしている。山嵐もいつの間にか来ている。
欠勤だと思ったら遅刻《ちこく》したんだ。おれの顔を見るや否や今日は君のお蔭で遅刻したんだ。罰金《ばっきん》を出したまえと云った。
おれは机の上にあった一銭五厘を出して、これをやるから取っておけ。先達《せんだっ》て通町《とおりちょう》で飲んだ氷水の代だと山嵐の前へ置くと、
何を云ってるんだと笑いかけたが、おれが存外真面目《まじめ》でいるので、つまらない冗談《じょうだん》をするなと銭をおれの机の上に掃《は》き返した。
おれは君に氷水を奢られる因縁《いんえん》がないから、出すんだ。取らない法があるか」
「そんなに一銭五厘が気になるなら取ってもいいが、なぜ思い出したように、今時分返すんだ」
赤シャツの依頼がなければ、ここで山嵐の卑劣《ひれつ》をあばいて大喧嘩をしてやるんだが、
人がこんなに真赤《まっか》になってるのにふんという理窟《りくつ》があるものか。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY