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坊っちゃん 六 Botchan Chapter VI (3)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
「氷水の代は受け取るから、下宿は出てくれ」
「一銭五厘受け取ればそれでいい。
下宿を出ようが出まいがおれの勝手だ」
「ところが勝手でない、
昨日、あすこの亭主《ていしゅ》が来て君に出てもらいたいと云うから、その訳を聞いたら亭主の云うのはもっともだ。
それでももう一応たしかめるつもりで今朝《けさ》あすこへ寄って詳《くわ》しい話を聞いてきたんだ」
 おれには山嵐の云う事が何の意味だか分らない。
「亭主が君に何を話したんだか、おれが知ってるもんか。
そう自分だけで極めたって仕様があるか。
訳があるなら、訳を話すが順だ。
てんから亭主の云う方がもっともだなんて失敬千万な事を云うな」
「うん、そんなら云ってやろう。
君は乱暴であの下宿で持て余《あ》まされているんだ。
いくら下宿の女房だって、下女たあ違うぜ。足を出して拭《ふ》かせるなんて、威張《いば》り過ぎるさ」
「おれが、いつ下宿の女房に足を拭かせた」
「拭かせたかどうだか知らないが、とにかく向うじゃ、君に困ってるんだ。
下宿料の十円や十五円は懸物《かけもの》を一幅《ぷく》売りゃ、すぐ浮《う》いてくるって云ってたぜ」
「利いた風な事をぬかす野郎《やろう》だ。そんなら、なぜ置いた」
「なぜ置いたか、僕は知らん、置くことは置いたんだが、いやになったんだから、出ろと云うんだろう。
君出てやれ」
「当り前だ。居てくれと手を合せたって、居るものか。
一体そんな云い懸《がか》りを云うような所へ周旋《しゅうせん》する君からしてが不埒《ふらち》だ」
「おれが不埒か、君が大人《おとな》しくないんだか、どっちかだろう」
 山嵐もおれに劣《おと》らぬ肝癪持《かんしゃくも》ちだから、負け嫌《ぎら》いな大きな声を出す。
控所に居た連中は何事が始まったかと思って、みんな、おれと山嵐の方を見て、顋《あご》を長くしてぼんやりしている。
おれは、別に恥《は》ずかしい事をした覚えはないんだから、立ち上がりながら、部屋中一通り見巡《みま》わしてやった。
みんなが驚《おど》ろいてるなかに野だだけは面白そうに笑っていた。
おれの大きな眼《め》が、貴様も喧嘩をするつもりかと云う権幕で、野だの干瓢《かんぴょう》づらを射貫《いぬ》いた時に、野だは突然《とつぜん》真面目な顔をして、大いにつつしんだ。
少し怖《こ》わかったと見える。
そのうち喇叭が鳴る。山嵐もおれも喧嘩を中止して教場へ出た。
会議というものは生れて始めてだからとんと容子《ようす》が分らないが、
職員が寄って、たかって自分勝手な説をたてて、それを校長が好い加減に纏《まと》めるのだろう。
纏めるというのは黒白《こくびゃく》の決しかねる事柄《ことがら》について云うべき言葉だ。
この場合のような、誰が見たって、不都合としか思われない事件に会議をするのは暇潰《ひまつぶ》しだ。
誰が何と解釈したって異説の出ようはずがない。
こんな明白なのは即座《そくざ》に校長が処分してしまえばいいに。随分《ずいぶん》決断のない事だ。
校長ってものが、これならば、何の事はない、煮《に》え切《き》らない愚図《ぐず》の異名だ。
 会議室は校長室の隣《とな》りにある細長い部屋で、平常は食堂の代理を勤める。
黒い皮で張った椅子《いす》が二十脚《きゃく》ばかり、長いテーブルの周囲に並《なら》んでちょっと神田の西洋料理屋ぐらいな格だ。
そのテーブルの端《はじ》に校長が坐《すわ》って、校長の隣りに赤シャツが構える。
あとは勝手次第に席に着くんだそうだが、体操《たいそう》の教師だけはいつも席末に謙遜《けんそん》するという話だ。
おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へはいり込《こ》んだ。
向うを見ると山嵐と野だが並んでる。
野だの顔はどう考えても劣等だ。
喧嘩はしても山嵐の方が遥《はる》かに趣《おもむき》がある。
おやじの葬式《そうしき》の時に小日向《こびなた》の養源寺《ようげんじ》の座敷《ざしき》にかかってた懸物はこの顔によく似ている。
坊主《ぼうず》に聞いてみたら韋駄天《いだてん》と云う怪物だそうだ。
今日は怒《おこ》ってるから、眼をぐるぐる廻しちゃ、時々おれの方を見る。
そんな事で威嚇《おど》かされてたまるもんかと、おれも負けない気で、やっぱり眼をぐりつかせて、山嵐をにらめてやった。
おれの眼は恰好《かっこう》はよくないが、大きい事においては大抵な人には負けない。
あなたは眼が大きいから役者になるときっと似合いますと清がよく云ったくらいだ。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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