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The Old Man and the Sea 23 老人と海


Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
 頭が鈍ってきたな。彼は思った。
頭は明晰に保っておかなければ。明晰な頭で、人間らしく苦しむべきだ。あるいは魚らしく。彼はそう考えた。
「頭よ、しっかりしろ」自分にもほとんど聞こえない声で言った。「しっかりしろ」
 さらに二度、周回のたびに同じことが起きた。
 何だこれは。老人は思った。
分からない。だが、もう一度やるぞ。
 彼はもう一度試みたが、魚を引っくり返したかと思うと、気を失いそうになるのだった。
魚は立ち直り、水面から出した大きな尾を揺らして、またゆっくりと遠ざかっていく。
 もう一度だ。老人は誓った。両手はもうぼろぼろで、目には途切れ途切れの光景しか見えなかった。
 彼はもう一度挑んだが、結果は同じだった。
それならば、と彼は思ったが、動く前から目まいがした。ならば、もう一度やるぞ。
 残された全ての力と、とうに失った誇りとを掻き集め、彼は魚の苦しみに向けてそれをぶつけた。魚は船のほうに引き寄せられ、彼のそばをゆっくり泳ぐ。船べりの板にくちばしがふれそうなほど近づいている。魚は船の脇を通り過ぎようとした。長く、分厚く、大きく、銀色に輝き、紫色の縞を見せ、水の中で果てしなく広がりながら。
 老人はロープを手放し、足で踏みつけた。そして銛をできる限り高く振り上げ、全力を、いや全力以上の力を込めて、魚の体めがけて突き下ろす。老人の胸の高さまで持ち上がっていた巨大な胸びれの後ろに、銛が打ち込まれた。
鉄が魚の肉に潜るのを感じると、彼は銛に寄りかかり、全体重をかけてさらに深く刺し入れる。
 魚は、死を孕んで生命を輝かせた。水面から高く跳ね上がり、その大きな体を、力と美しさを、残さず見せつける。
船に乗る老人よりも高く、宙に浮かんでいるように見えた。
と、魚は激しい音を立てて水に落ち、老人と船全体にしぶきを浴びせた。
 老人は眩暈を覚えた。胸がむかむかするし、目はよく見えない。
だが彼は、銛のロープの絡みを取り、擦りむけた手でそれを少しずつ送り出した。視界がはっきりしてくると、魚が銀色の腹を出して仰向けになっているのが見えた。
銛の柄は魚の体に斜めに突き刺さり、その心臓から流れる血は海を赤く染めていた。
一マイル以上の深さの青い海を背景として、魚群のような暗い色の塊になっていた血は、やがて雲のように広がっていった。
魚は静かに銀色に輝いて、波に揺られていた。
 老人は、ぼやける視界に映るものをしっかりと見つめ直した。
そして銛のロープを舳先の繋ぎ柱に二回巻いてから、下を向いて頭を両手で押さえた。
「しっかりした頭が必要だ」彼は舳先の板に寄りかかりながら言った。
「俺は疲れた年寄りだ。だが、兄弟分の魚を殺してやった。残るは雑用だ」
 さあ、ロープで輪を作って、奴を船べりに括りつけるんだ。彼は思った。
俺と魚でたった二人とはいえ、奴を乗せたら船に水が入ってしまう。水をかき出したところで、この船では奴を運ぶのは無理だろう。
何しろロープの準備だ。そして奴を船に寄せて、しっかり括りつけ、マストを立てて帆を張る。それで家に帰ろう。
 魚を船の脇につけるため、彼はロープを引き始めた。鰓から口にロープを通して、頭を舳先に縛り付けるのだ。
奴を見ていたいからな、と彼は思った。奴を触って、その感触を確かめたい。
奴は俺の財産だ。だが、だから触りたいというわけじゃない。
俺は奴の心臓まで感じたんだ。彼は思った。
刺さった銛を押し込んだ時にな。
さあ、奴をもっと引き寄せて、尾びれと胴体に輪っかをかけて、船に括りつけてやろう。
「爺さん、仕事だ」彼は言った。そして少しだけ水を飲んだ。
「闘いの後には、雑用仕事が山ほど待ってる」
 彼は空を見上げ、それから魚を眺めた。そして太陽をしっかり観察した。
正午を過ぎてそれほど経っていないようだ、と彼は思った。貿易風も吹いている。
 
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami
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