※本文をクリック(タップ)するとその文章の音声を聴くことができます。
右上スイッチを「連続」にすると、その部分から終わりまで続けて聴くことができます。
※ "PlayBackRate" で再生速度を調節できます。
The Old Man and the Sea 24 老人と海
Ernest Miller Hemingway アーネスト・ヘミングウェイ
AOZORA BUNKO 青空文庫
「おい、こっちへ来い」彼は言った。だが魚は来ない。
ただ波間で仰向けに横たわっているだけだった。老人は魚のほうへ船を漕いだ。
魚の真横に船を並べ、舳先をその頭に寄せてみたが、まだ彼はその大きさを信じられなかった。
彼は銛に繋がったロープを舳先の棒から外して、それを魚の鰓から顎へと通し、剣のようなくちばしに一回巻いた。それから反対側の鰓に通してさらに一度くちばしに巻き、ロープの端と端を結び合わせて舳先の棒に繋いだ。
彼はロープを切り、尻尾のほうにも輪をかけるために船尾に移動した。
元々は紫色と銀色だった魚の体は、いまや銀一色に変わっていた。縞模様は尾びれと同じ薄紫色だった。
その縞は、指を広げた人間の手よりも幅広い。その眼は、潜望鏡の反射鏡のように、あるいは行列祈祷式の聖者の眼のように、何が映っているのか分からないものだった。
水を飲んでから少し調子が良くなっていた。気を失う心配はもう無いし、頭もはっきりしている。
丸のままで千五百ポンドはあるな、と彼は思った。いや、もっとかもしれない。
さばいて三分の二の重さになるとして、一ポンドあたり三十セントならいくらになるだろう。
「まだ頭がしっかりしてない。だが今日の俺を見たら、大ディマジオだって褒めるだろう。俺には骨棘は無いが、e手や背中はひどい傷だ」
骨棘とはどんなものだろうな、と彼は考えた。もしかすると、知らない間にできてるのかもしれない。
魚はあまりに大きく、この船より大きな船を横に括りつけたようだった。
彼は短く切ったロープで魚の下顎とくちばしを縛った。口を閉じさせておいたほうが、船が滑らかに進むからだ。
それから彼はマストを立てる。斜桁と下桁の間に継ぎはぎの帆が張られ、船は動き始めた。彼は船尾で半ば寝そべったまま、南西へ向かった。
コンパスなど必要なかった。貿易風の吹き方と帆の張りを見れば、どちらが南西かは分かる。
短いロープに疑似餌をつけて垂らしておこう。食べ物も水分補給も必要だ。
そこで彼は、流れていくホンダワラの黄色い塊を手鉤で引っ掛けた。揺すってみると、中にいた小エビたちが船底に落ちる。
十匹以上いるようだ。浜跳虫のように飛び跳ねている。
老人は親指と人差し指で頭をつまみ取り、殻や尻尾まで噛み砕いて食べた。
とても小さいが、栄養豊富で味も良いことを老人は知っていた。
瓶の中の水はあと二口ほど残っていた。老人はエビを食べてしまった後で、その水を一口の半分だけ飲んだ。
重荷のわりに、船はよく進む。彼は舵棒を脇に挟んで操舵を行っていた。
魚はすぐそこに見える。自分の手を見て、船尾に寄りかかる背中の感触を意識すれば、これが夢ではなく本当に起きた事だと分かった。
闘いの終盤、あまりにも苦しかった時、これは夢かもしれないと彼は思った。
そして魚が水から跳ね上がり、落下する前に空中で静止した時には、何かとてつもなく異常なことが起きているとしか思えず、現実と信じることができなかった。
その時は目がよく見えなかったのだ。今はもう、何ともないが。
今は分かっている。魚はそこにいるし、両手も背中も夢ではない。
手から出る血はもう出し切ったから、あとは塩水が治してくれる。
とにかく俺がすべきなのは、頭をはっきりさせておくことだな。
奴は口を閉じ、尾をまっすぐ上下させて、俺たちは兄弟のように進んで行く。
その時、頭が少しぼやけ始め、彼は考えた。奴が俺を運んでいるのか、それとも、俺が奴を運んでいるのか。
後ろにいる奴を俺が引っ張っている状況なら、疑う余地は無い。
魚が船に載っていて、その威厳も消え去っているなら、やはり疑う余地はないだろう。
老人と魚は、しかし横並びに結ばれて一緒に進んでいた。彼は思った。奴がそうしたいなら、俺を運ぶがいい。
俺は策略で奴に勝っただけだし、奴は悪意を持ってはいなかった。
彼らの船は順調に進んだ。老人は手を塩水に浸し、しっかりした頭を保つよう努めた。
空高く積雲が浮かび、その上には巻雲がたくさん出ていたから、風は一晩中やまないと分かった。
老人はたびたび魚のほうを見て、それが現実であることを確かめていた。
Copyright (C) Ernest Miller Hemingway, Kyo Ishinami