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The Memoirs of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの思い出
The Resident Patient 入院患者 6
Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
それから数分の後、私たちは街へ出て、家路を辿りつつあった。
私たちはオックスフォード街を横切り、そしてハーレイ街の中ほどまで下って来るまで、お互いに一言も口をきき合わなかった。
「ワトソン、あんな馬鹿な奴の所へ、下らなく君を引っ張り出してすまなかったねえ」 遂に、ホームズは口をひらいた。
「しかしあの問題のどん詰りまで行けば、面白い事件なんだよ」
「そうかねえ、僕には全然分からない」 私は正直に白状した。
「とにかく何かの理由で、このブレシントンをつけねらってる男が二人、――いや、ことによるともっといるかも知れないが、少くも二人いる、と云うことはたしかなんだ。
僕は最初の時もそれから二度目の時にも、例の若い男がブレシントンの部屋に忍び込んだに違いないと思ってるんだ。そしてその間片方では、共謀者が、実に巧みな計略で、例の医者を診察室の中へとじこめちまっていたんだ」
「だがしかし一人の男は顛癇病の患者だったのじゃないかね!」
「なあに、君、ありア仮病さ、ワトソン君、なんだか専問家に僕のほうで教えるような形になって変だけれど、
その真似をして仮病をつかうぐらいのことは何でもないんだよ。
「それからだね、前後二回とも、ブレシントンが外出中のことだったのは、偶然にそうなったのだと云うことだ。
それは、つまり診察してもらうのに、殊更に夕方のそんな変な時間を選んだと云うのは、そんな時間なら待合室には誰もいないのに相違ないからだったのだ。
ところが、それが偶然にもブレシントンの毎日の規則と合ってしまったわけなんだ。その二人の男は全くブレシントンが毎日夕方になると散歩に出ることなどは知らなかったのだ。
――無論、もしその二人の男が、何か略奪をする目的でやって来たのだとしたら、あのブレシントンの部屋に少くもその辺を探し廻ったらしい形跡がなくてはならない。
その上、僕は、大ていの場合、人の目を見れば、その男が何か心に恐怖を持ってる場合には、ちゃんと見抜くことが出来るんだ。
――そこで僕はこう見当をつけた。その二人の男は、ブレシントンを讐とねらってる男に相違ない、とね。
――とすれば、その二人の男が何者だか、ブレシントンは知っていなければならないはずだし、それだからこそ彼はそれを隠して知らないような顔をしているのに違いないのだ。
だが、見たまえ、あしたになると、あの男はきっと正直に何もかも打ちあけて話すようになるから……」
「なるほど、それはたしかにそうかもしれないね」 と、私は云った。「だがその他に、こうも考えられる。
その顛癇病のロシア人親子の話は、みんなトレベリアン博士のつくり話で、ブレシントンに対して何かなす所あろうため、そんな話をつくったのではないかと云う事だね」
私は、ホームズが私のこの反対を耳にした時、ニヤリと得意げに微笑したのをガスの光りの中に見た。
「僕もそれは最初に考えたよ」 彼は云った。「しかし僕は、医者の話は本当のことだと云うことを確かめることが出来た。
――と云うのは例の若い男は、階段のカーペットの上へも、ちゃんと足跡を残していっていたので、部屋の内へ残していったと云うその足跡を見に行かなくても僕はちゃんと分かってしまったんだが、
ブレシントンの靴もあの医者の靴もさきが尖っているのに、その足跡は四角な爪さきで、そして医者の靴よりは一吋三分の一は大きいのだ。これを見れば、彼の話がつくり話ではなさそうに思われたんだ。
――が、まあ、今夜は早く寝て、寝ながら少し考えてみようよ。きっと明日の朝になるとブルックストリートから何か云って使が迎えにやって来るから………」
このシャーロック・ホームズの予言は、たちまち見事にあたってしまった。しかも最も劇的な筋みちを辿って。
――と、云うのは、その翌朝の七時半頃のことだった。窓からさし込む朝のうす明かりの中に、もう不断服に着かえたホームズが、私の寝台の側に立っているのを見出した。
「ワトソン、馬車が迎えにやって来てるんだ」 と、彼は云った。
「ああ、――じゃ、何か新しい知らせでもあったんだね」
「悲劇的な、しかも至ってまぎらわしい知らせなんだ」 彼は部屋の窓の鎧戸を引きあけながらそう云った。
「まあ、これを読んでみたまえ、――ノートから破りとった紙の上へ、鉛筆で、――直ちに御来駕御救援願いたし、トレベリアン、――と書いてあるんだからね。
たぶん医者は、このノートさえ書くのにやっとだったに違いないんだよ。
――とにかくよほど困ってるらしいんだから、いってみてやろうじゃないか」
それから二三十分の後、私たちは例の医院の前に着くことが出来た。
と、彼は恐怖に満ちた顔つきをしながら家の中からとび出して来た。
「思いがけないことになったんです」 彼はそう云いながら、自分の手で自分の額を押えた。
「そうなんです。昨夜のうちに、ブレシントンは首をくくっちまったんです」
私たちは家の中に這入っていった。そして医者は、私たちをたぶん待合室であろうと思われる部屋に案内していった。
「実際、私はどうしたらいいのか、全く分からないんです」 トレベリアンは云った。
「彼は毎朝早く、きまってお茶を一杯飲むのが習慣だったんですが、
今朝も七時に女中がお茶を持って部屋に這入って行くと、その時には既に、彼は部屋の真ん中にブラさがっていたのだと云うことです。
――いつもあの重いランプをかけることにしていた鈞に、紐をむすびつけて、昨日私たちに見せたあの箱の上から飛んでぶらさがったものらしいですね」
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo