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The Life and Writings of Edgar Allan Poe Part Two(1) エドガー・アラン・ポオの生涯と作品


The Life and Writings of Edgar Allan Poe Part Two エドガー・アラン・ポオの生涯と作品
EDGAR ALLAN POE: STORYTELLER. エドガー・アラン・ポー物語シリーズ
ここにお送りしますのは、1世紀余り昔のアメリカの作家、エドガー・アラン・ポオの生涯と作品についてのシリーズの、第2回の番組です。
このシリーズは、アメリカの口語英語の理解に役立つことを目的として作られています。
では、ポオの生涯と作品についての、2回にわたる話のうちの2回目をお聞きください。
お話は、ワシントンD.C.のアメリカン・ユニバーシティのF・カウルズ・ストリックランド教授です。
1827年、エドガー・アラン・ポオはまだ18歳でしたが、家族と別れ自活しなければなりませんでした。
それ以後、彼は作品を売って生計を立てようとしました。
しかし、誰ひとりそれ相応の報酬を支払ってくれる人はいませんでした・・・彼の生涯を通じてそうだったのです。
だから、彼は生涯のほとんどの時期を貧困の中に過ごしました。
しかし、彼は家族とも友人とも接触がなかったわけではありません。
バージニア州のアラン一家の家を飛び出してから、彼が最初にしたことは、父方の祖母を捜すことでした。
彼はボルティモアで、年老いたポオ夫人を見つけました。彼女は、娘のクレム夫人とクレム夫人のまだ年のいかない娘バージニアと一緒に小さな家に住んでいました。
ポオはたちまちこの人たちが好きになりました。彼女たちといると、家に帰ったような気持ちになるのでした。
彼女たちも貧乏だったので、彼は初めは彼女たちに自分の分まで負担をかけたくないと思いました。
しかし、ほとんど無一文で貧困に悩まされた、独り暮らしの4年間が過ぎると、ポオはボルティモアを訪れ、祖母の家の一室に住み始めたのです。
彼は家族の人たちのために、できることは何でも快くしました。
彼は仕事を見つけようとしましたが、うまくいきませんでした。
その結果、彼はただ無為に過ごすことなく、書くことを続けたのです。
当時は、有名になりたい、認められ、噂されたいと思う作家は、知名の士を好んで自宅に招いた富豪の家で催される会合に、自分の詩や小説を持ち込むことが許されていました。
こういった会合で、作家は自分の詩や小説を朗読することによって、名前を売ることができたのです。
ポオもこれをやりました。
しかし、これはすぐに効果が上がる方法ではありませんでした。
作品が雑誌とか新聞に掲載されれば、もっと多くの人に認められるでしょう。
毎月とか隔月とかに出る雑誌がいくつかありました。
それらの雑誌の内容はきわめて広範囲にわたっていて、詩、小説、文学評論、国家の問題を論じたもの、おもしろくて風変わりな出来事の手記、読者からの投書、といった具合でした。
ポオの詩や小説のいくつかを掲載した雑誌の一つに、『南部文芸通信』というのがありました。
この雑誌の所有者は、さっそくポオに、ほかの作家の新刊を読んで批評を書くように依頼しました。
こうして、ポオは批評家としての仕事を始めたのです。
ポオは主として、ほかの作家や文学や創作技術について書きました。
このことは、アメリカ文学の研究者が、往々にして見逃している事実です。
ポオが『南部文芸通信』に寄稿するようになって、やっと数か月たったころ、この雑誌の所有者は、彼にリッチモンドへ来てこの雑誌の出版を手伝ってほしいと頼みました。
ポオは大喜びで、さっそく依頼に応じました。
この仕事の報酬はほんのわずかでした。
しかし、そのころのポオは無一文だったので、かなりの額のように思えたのです。
それに、ポオにとってもっと大事なことは、彼は今度はフォーラムを担当できるということでした。つまり、今度はどれを雑誌に取り上げるかということは、彼の裁量に任せられていたのです。
彼はたびたび自分が書いたものを取り上げました。
ポオは商売人としては落第でした。
しかし、編集者としては優れた才能を持っていました。
彼は雑誌を、そして、彼自身を全国的に有名にしたのです。
彼が批評家として書いたものは特に有名です。
なぜかというと、ポオは優れた作家として繊細な頭脳を持っていたばかりでなく、創作技術に関して非常に明確な意見を持っていて、それらの意見を世に問うことに、何の恐れも抱いていなかったからです。
彼の気に入らない本とか詩とか小説とかがあると、彼は自らの筆で作品と作家を徹底的にやっつけました。
ポオは味方よりも敵の多い存在となりました。
今日我々には、ポオがなぜあのようなことを書いたのか理解に苦しむようなものもあります。彼は往々にして、必要以上に非友好的で、公正を欠いてさえいました。
クレム夫人やバージニアと家にいる時も、またほかの女性たちと同席の時も、ポオは優しく思いやりのある人物で、周りの人たちの気持ちを傷つけないよう、細心の注意を払っていました。
しかし、ポオはほかの大方の作家より自分のほうが優れた作家だと、確信していました。
自分は創作技術の審判者としては打ってつけであり、他の作家は自分の意見を傾聴すべきだと考えていたのです。
ポオがリッチモンドへ行くころには、クレム夫人とバージニアは二人きりで、だれも養ってくれる人がいませんでした。家族のほかの人たちはみんな死んでしまったか、家を去っていってしまったのです。
それに、ポオにとってはクレム家の母娘はなくてはならない存在でした。母親代わりのクレム夫人と、妹代わりのバージニアというわけです。
2人は結局、彼についてリッチモンドへ行くことに同意しました。そして、ポオは2年後にバージニアと結婚しました。
彼は28歳、彼女はまだ満14歳になっていませんでした。
批評家の中には、ポオは彼の新しい母親であるクレム夫人と夫人から貰った家を失いたくないというだけの理由で、バージニアと結婚したのだという人たちもいます。
ポオ一家がリッチモンドにいたのは、たったの2年でした。
『南部文芸通信』で働くようになって、まだ1か月しかたたないある朝早く、ポオは事務所に現れました。すでに飲んでいたことは、だれの目にも明らかでした。彼は即刻仕事を取り上げられました。
ポオは二度と同じようなことはしないと約束をして、元の仕事につくことを許されました。
しかし、その後2年の間に、少なくとも2度同じことを繰り返しましたので、雑誌の所有者はついに彼を首にし、二度と雇い入れようとはしませんでした。
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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