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Thomas Alva Edison トマス・アルバ・エジソン


Thomas Alva Edison トマス・アルバ・エジソン
AMERICAN MEN of SCIENCE and INVENTION
トマス・エジソンが1847年、オハイオ州のミランという小さな町に生まれたころ、アメリカは、大きな工業発展のちょうど始動期であった。
84歳の生涯を通じてエジソンは、アメリカが現代国家へと発展していく興奮を味わった。
彼が生きた時代は、人間と科学の冒険の華やかなりし発明の時代で、エジソンはその時代の英雄になった。
少年のころ、エジソンはよい生徒ではなかった。
両親は彼を退学させ、母親が家で教えたが、彼は実験に非常に関心を持ち、これをやりたがったため、面倒を引き起こすことがしばしばあった。
6歳の時、彼は父親の納屋に火をつけて、「どうなるのか様子を見た。」
納屋は焼け落ちてしまった。
10歳の時、エジソンは自分の化学の実験室を作った。
彼はローカル線の車内で、サンドイッチや新聞を売って、実験材料を買う金をかせいだ。
両親はなんとか彼の実験やときどき家を揺るがす爆発事故にも慣れていった。
鉄道の売子をしたため彼は電信を知るようになり、友だちと自分の電信機を作った。
彼はモールス符号を独学し、専門の電信技士になる機会をうかがっていた。
好運にも、エジソンの先見の明により、その機会はやがて訪れた。
ある日のこと、若きエジソソが汽車の来るのを待っていると、駅長の息子が近づく汽車の線路にふらふら入っていく姿を見かけた。
エジソソは急ぎその場に駆けつけ、少年を救った。
駅長は感謝の印として、エジソンに鉄道電信技術を教えようと言った。
後、1863年、彼はベテランの電信技士となり、いろいろな市で働くために家を離れた。
その6年後、1869年に、エジソンがニューヨーク市に着いた時は、貧乏で借金を背負っていた。
彼は電信会社で働くために行ったのである。
彼が電気の利用に興味を持ったのは、ここでのことである。
当時、電気はまだ実験段階にあり、エジソンは人々の役に立つために、新しい電気の利用法を考えたいと思っていた。
彼のことばによれば、彼はかつてこう述べている。「私の人生哲学は研究です。
私は自然の秘密を探り出して、それを人間の幸福のために応用したいと思っている。
われわれが生を受けている短い間にできることと言えば、これが最上だと思う。」
"同年、エジソンがわずか22歳の時、彼は株式相場表示機の改良機を発明し、これによりニューヨーク株式市場の相場表示が改善された。
相場表示機が成功したので、エジソンは仕事をやめ、発明に専念しようと思った。
エジソンは電信会社の社長に、いくらなら彼の発明を譲ってくれるかときかれた時、わずか3,000ドルで手を打とうと思っていた。
念のためこうきいてみた。「いくらならと考えておられるんですか。」
「4万ドルではどうだろうか。」
社長はきいた。
エジソンは危うく気絶するところだったが、やっとのことで、それなら結構ですと答えた。
この金を基にして、現在では電気技師を名乗るエジソンは、ニュージャージー州ニューワークに自分の「発明工場」を建てた。
その後の数年問で、彼は多くの新しいものを発明し、製造したが、その中には謄写機械、ろう引きの包装紙、電信機の改良が含まれている。"
1877年、エジソンはもう製造と発明の両方をやるのはやめようと思った。
彼は工場の権利を売り、ニュージャージー州メンローパークに新しい実験所を建てた。
これは組織的工業研究を目的とする最初の実験所であった。
彼の新しい実験所から生まれた最初の発明の一つが、アレクサンダー・ベルの電話の改良であった。
エジソソの発明した送話器は性能がよく、電話に向かって大声で言う必要がなかった。
しかし、彼の偉大な発明はまだ続くのである。
1877年8月12日、エジソンは自分で設計し、注文して作らせた装置の実験を始めた。
それはスズ箔(はく)にくるまれ、ハンドルで回転する円筒だった。
これが回転すると針によって、箔にみぞが刻み込まれた。
ハンドルを回しながら、彼は大声でこう言い始めた。
「メアリの飼ってた小羊は、毛が雪みたいにまっ白だ!」
彼はここでことばを切り、針をスタートした位置にもどした。
それから耳を針の近くに寄せて、ハンドルをもう一度回した。
その機械から声が聞こえてきた。「メアリの飼ってた小羊は、毛が雪みたいにまっ白だ!」
エジソソは全く新しい考えに基づいた機械、蓄音機、つまり話す機械を発明したのであった。
エジソソは蓄音機を完成させる一方、ほかの発明にも取りかかっていた。
彼はそれを「白熱で光を出す電燈」と呼んでいた。
今日の電球である。
"何年もの間、発明家たちが電燈の実験をしたが、経済的なものを作ることができなかった。
エジソンはその問題を研究して、実験に1年以上を費やした。
その間に1,600種の物質・・・友人のひげの毛まで・・・をテストして、電流を通して光るかどうかを調べた。最
後に、1879年10月21日、真空のガラス球の中に炭化させた綿糸を入れ、これに電気を通してみた。
エジソンは、この実験について次のように述べている。「……日が暮れるまでにカーボンができ、電燈にそう入した。
球内の空気が抜かれ、密封され、電流が流されると、長い間望んでいた光景がわれわれの目に映った。」
電燈は弱々しい、赤味がかった光を出し、40時間輝き続けた。
エジソンの驚くべき発明により、電燈が世界の未来の明かりになることが証明されたのである。
"エジソンは今や発明家として有名となり、彼にできないことは何ひとつないと人々は思った。
人は彼が魔法のように発明するというので「魔法使い」と呼んだ。
しかし、エジソンがどれほど研究をしたか、1日20時間働くこともしばしばであったことを、またその発明は何百回という実験のたまものであることを知っている人は少ない。
60年間というもの、エジソンは世界最高の発明家であった。
彼は1,000種類以上の発明の特許を持ち、その発明はわれわれの生活様式を変えたのである。
彼は映写機を最初に発明した一人でもあった。
彼の蓄音機の発明が、トーキー映画の写真技術と融合したのである。
彼はモーターも完成し、これにより市電、電車が実現した。
したがって、人類の進歩に貢献したという理由により、エジソンが生存中、数々の栄誉を受けたのは不思議ではない。
アメリカは彼に最高賞の特別連邦議会名誉章を与えた。
しかし、あらゆる名声を得たにもかかわらず、エジソソはおごり高ぶることはなかった。
彼は業績にあぐらをかくより研究を続けることのほうを好んだ。
彼のモットーは「私は世界の人々が求めているものを見つけてから、発明に着手する」であった。
彼は自分が頭がいいと思ったことは一度もなく、かつて天才とは「2パーセントの才能と98パーセントの努力」であると言ったことがある。
エジソンが1931年に死んだ時、アメリカ国民はこの偉大な人物を追悼して、各家庭、街、工場で、数分間あらゆる電力を停止するという提案があった。
もちろんそのような追悼が不可能であることはすぐさまわかった。
不可能であること自体がまさにエジソソの業績に対する真の追悼であった。
電力はアメリカ人の生活にとってきわめて重要かつ欠くべからざるものであったため、たとえ数秒でも完全な電力停止を行うと、混乱を生じることになるのである。
「偉大な英雄的発明家の一人」としてのエジソンが、人間の進歩に対するアメリカの、そして世界の偉大な貢献者の一人であることは当然のことである。
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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