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Herman Melville(1) ハーマン・メルビル


Herman Melville ハーマン・メルビル
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
ハーマン・メルビルは、19世紀の最も優れた小説の一つを残した作家ですが、死んだ時はほとんど無名でした。
彼の葬式に参列したのは、彼の妻と、2人の娘と、わずかばかりの家族の知り合いにすぎませんでした。
メルビルは、すべての船乗りに共感を覚えましたが、彼自身もあらしの中で波に翻弄される船のように、激しい風と荒天に立ち向かい、最後にはさざなみも立てずに沈んでいったのです。
メルビルは、1819年8月1日にニューヨーク市で生まれました。これは、詩人ウォルト・ホイットマンが生まれた年と同じです。
メルビルの父親は、不況で倒産するまでは裕福な商人でした。
父親は、メルビルが12歳の時、貧困の中に妻と8人の子どもを残して、この世を去りました、
上から3番目の子どもであったメルビルは、ニューヨーク州のオルバニーの私立学校に通っていましたが、家計を助けるため、学校をやめて仕事につかなくてはなりませんでした。
彼は、冬は帽子屋で働き、夏は農場で働きました。
彼は田舎の学校で教べんを執ることによって、より多くの収入を得ようとしましたが、彼には十分な知識と経験がなかったために、ほかの仕事を捜さなくてはなりませんでした。
リバプール行きの船で、キャビン・ボーイとしての仕事についたのは、メルビルの20歳の時のことでした。
船内での仕事は危険なばかりでなく、みじめで喜びのないものでした。
仲間は粗暴で、規則は苛(か)酷なもので、ひどい待遇を受けました。
彼の海外旅行は4か月続きましたが、その間、ほとんどリバプールの汚いスラム街で過ごしました。
このころの陰うつな経験は、青年の心に焼きついて、生涯消えることはありませんでした。
この時の旅行は、その後何年もたって『レッドバーン』という小説の基になりましたが、この小説の大半は、メルビル自身の思想や経験を物語ったものです。
アメリカにもどったメルビルは、この時ほど、自分の将来について不安な気持ちを抱いたことがありませんでした。
彼は、3年近くの間、学校の教師をしたり、余暇に書き物をしたりして、小さな町の生活になじもうと努めました。
しかし、海へのあこがれは抑えがたいものでした。
まだ23歳になるかならないかのうちに、マサチューセッツ州のニューベッドフォードへ行きました。その町は当時、捕鯨産業の中心地だったのです。
ここで、彼は1841年の元日に、南太平洋に出漁する捕鯨船に乗り組みました。
この航海は長い旅であったばかりでなく、退屈な航海でした。
青年メルビルは、マットを織って日を過ごすことが多かったのですが、暇を盗んでは、小説を書くための覚書を書き記していました。
たまにはおもしろい日もありました。それは、乗組員が鯨の姿を見かける日でした。
そういう時は、ボートを降ろして、鯨を追いかけ、捕まえて、切り分けてしまうのでした。
メルビルは、これらの作業を細かいところまで習い覚えましたが、このことはあとになって、彼の小説『白鯨』の中で、きわめて印象的に物語られています。
しかし、彼にとってこの航海で得たものよりも、苦労のほうがはるかに大きかったのです。
船長は残酷な男で、公平を欠いていましたので、乗組員たちは反逆をほのめかしていました。
メルビルは、こういった生活に、1年半以上は耐えることができませんでした。
彼は、船がマルケサス諸島に着くころには、粗末な食事とこれにもまして悪い待遇に、もうすっかりいやになっていました。
この先、何年も船で暮らすのかと思っただけでも、ますますいやになりました。
そこで、彼は相棒と命がけで船を捨て、ある島の奥地へ逃げ込みました。
気がついてみると、彼は、人食い人種のうわさのあったタイピあるいはタイピーという部族の中に迷い込んでいたのです。
彼は捕らえられ、厳重な見張りの下に置かれました。
しかし、タイピー人たちは、彼を食べるどころか、彼を丁重にもてなしました。
彼はタイピー人たちの儀式に連なり、彼らのスポーツに加わり、彼らと生活をともにしました。
ことによると、彼は何年もの間、そこに住むことになっていたかもしれないのですが、彼は片足に、タイピー人たちでは治すことができないようなけがをしたのです。
彼らはメルビルを小舟に乗せ、たまたま停泊していた捕鯨船ルーシー・アン号へ連れていきましたので、彼は、再び航海に出ることになったのです。
彼はあとになって、この島での経験を、最初の小説『タイピー』の中で述べています。
この本は、メルビルが27歳の時に書いたものですが、彼はこの本の中で、彼がポリネシアの風習に好感を持っていること、未開人に対する尊敬の気持ちを持っていること、自然に帰って生活することを好んでいたこと、などを語っています。
アメリカの評論家ルイス・マムフォードは、メルビルの『タイピー』をソローの『ウォールデン』と比較して、次のように述べています。
「2冊とも、同じころに、ほとんど同じテーマで書かれたもの-つまり、何物にも拘束されない、自由な原始的生活をテーマとして書かれたものである。
ソローが、ウォールデンの池という手近なところで捜し求めた簡素と直截を、メルビルは、すでに南太平洋の島々に見いだしていたのである。
メルビルもソローも、文明の弊害をぬぐい去ることの意義を見いだしていたのである」
まもなく、メルビルは島を離れて、再び捕鯨船の乗組員になったことを後悔しました。
ルーシー・アン号での生活は、この前乗り捨てた船よりもさらにひどいものでした。
船長は、しらふの時でも血も涙もない残酷な男でしたが、酔っぱらうとその性質がいっそうひどくなりました。しかも、一日中、ほとんど朝から晩まで酔っぱらっていたのです。
メルビルは、またもや船を捨てました。
今度は、この前の島ではなく、パピーテという南太平洋の島でした。
彼は「オムー」・・・つまり、波止場のルンペンになりました。
『オムー』は『タイピー』の続編とも言うべき、彼の2つ目の小説の題名となりました。
これらの2冊の本は好感をもって迎えられ、筆者の輝かしい将来を約束するものでした。
しかしながら、彼は小説家として成功するまでには、ずいぶん長い間世の中に受け入れられず、苦労をしたのです。
彼は転々と職業を変えました。
彼はハワイで店員をしたり、風変わりな場所でいろんな仕事についたり、雑役夫として働いたりしました。
彼が一番落ちぶれていた時には、安っぽいボーリング場で、ピンを立てる仕事をしていました。
さまざまな恵まれない浮浪者生活の末、彼は再び航海に出ました。
しかし、今度は捕鯨の遠洋航海に出かけたのではありません。
アメリカ海軍の水兵になったのです。
メルビルは、14か月間海軍に身を置きました。
いくつかのおもしろい経験もなかったわけではありませんが、ほとんどは悲惨なものでした。
当時は、世界中どこの海軍ででも、むち打ち刑が行われていましたし、瀕死の状態になるまで水兵をむち打つことも、決して珍しくはなかったのです。
メルビルは25歳の時、船乗りの生活はもうたくさんだと思うようになりました。
彼は、自分の船がボストンに入港すれば除隊できるので、その日のくるのを一日千秋の思いで待ちました。
彼は、ただちに母や妹が待つニューヨーク州の家へ帰りました。
3年後、彼は結婚し、マサチューセッツ州のパークシャーの丘陵地帯に農場を買って、彼の最大の傑作『白鯨』の執筆に取りかかりました。
メルビルは、彼のほかの本を特徴づけていたあらゆる話の筋を、『白鯨』の中に織り込み、さらに新しい要素を加えましたが、この要素は自然の雄大さを示すものであって、これがために、この小説は世界で最も偉大な書物の一つとなったのです。
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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