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Mark Twain マーク・トウェイン
Mark Twain マーク・トウェイン
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
外輪船のホイールと印刷屋のインキ-サミュエル・ラングホーン・クレメンスことマーク・トウェインに関する短い物語。
彼は本名をサミュエル・ラングホーン・クレメンスといいますが、ペン・ネームのマーク・トウェインのほうがよく知られています。
マーク・トウェインは、アメリカ文学史上、重要な人物の一人ですが、彼がアメリカ文学の中に占める立場はきわめて特異なものです。
しかし、彼はただ偉大な作家であっただけではありません。彼は作家であると同時に有名なユーモリストであり、見聞談の語り手であり、人間や社会の偽善を風刺したジャーナリストであり、人間の自由を奪い去ろうとする暴虐行為と戦うのに笑いをもってした小説家でもあったのです。
サミュエル・クレメンスは、1835年11月30日、ミズーリー州のフロリダで、小売商人兼弁護士の父親の息子として生まれ、彼が4歳の時に彼の家族が移り住んだミズーリー州のハンニバルで大きくなりました。
サムは小学校も卒業せず、彼は主として経験や、ミシシッピー川西岸の静かな辺境の町にならどこでも見られるような人々や出来事を、鋭い観察力でながめることによって教育されたのです。
子どものころのサムの慰みは、巨大な外輪蒸気船が川を往来するのを、じっとながめていることでした。
ハンニバルの埠頭に蒸気汽船が入ると、ほとんどいつもと言っていいほど赤毛のサム・クレメンスは船を出迎え、毛皮猟のわな師、南部の紳士、農場所有者、東部から来たセールスマン、りっぱな服を着た婦人、といった人たちがタラップを降りてくるのをながめたり、彼らの話に耳を傾けたりするのでした。
そして、彼は西部の財宝やまだ征服されていない新しい土地などの話をむさぼるように聞いて、遠い土地での冒険について少年らしい夢を抱いていたのです。
1847年、サムの父親が亡くなると、彼もそれまでのようなのんきな生活を続けることはできなくなり、12歳で印刷屋の徒弟として、奉公に出なくてはならなくなりました。
彼は15歳で年季が明けると、『ハンニバル・ジャーナル』の出版者であった兄のオライオンのところへ、印刷工として働きに行きました。
サムはその後の何年間か、職長、兼編集次長、兼特別記事の執筆者として兄のところで働きましたが、この時に文章を書くことをおおいに身につけたことは疑う余地がありません。
16歳のころ、『ハンニバル・ジャーナル』に自分の創作記事を発表するようになりましたが、それらの記事はユーモラスな詩、おもしろ半分のニュース解説、町の人々を風刺的に観察したものなどでした。
サムは17歳になるとハンニバルを出て、はるばるとニューヨークまで流浪の旅を続けました。
彼はこの途中のいくつかの町で印刷工として働き、オライオンに手紙を送りましたが、オライオンは彼の手紙を新聞の特集コラムに掲載しました。
サムは西部にもどると、アイオワ州に移り住んでいたオライオンのところへ行って、そこで働きました。
しかし、サムはミシシッピー川の魅力を忘れることができず、21歳の時に昔の野心、ミシシッピー川の汽船の水先案内人になること、を実現するために、川へもどったのでした。
ポール・ジョーンズ号の水先案内人をしていたホーレス・ビクスビーのところで、18か月間の年季奉公をつとめた末、1857年にサミュエル・ラングホーン・クレメンスは汽船の水先案内人の免許を取得しました。
それから4年間、彼は汽船に乗ってミシシッピー川を上ったり下ったりしていましたので、この川の地勢のすみずみに至るまで名前と場所を知るようになりました。
彼はこの時の経験を、『ミシシッピー川の生活』の中で述べていますが、ある部分で次のように述べています。「私は、人々が朝刊にさっと目を通して必要なニュースを拾い読みすることができるように、水面を読むことができるようになると、……
もうこれ以上習得する技術はないものと判断した。だから、私は帽子を斜めにかぶり、舵輪のところでつまようじを口にくわえているようになったのである。」
"1861年になると、南北戦争のためにミシシッピー川の交通は途絶され、したがってサム・クレメンスの汽船の水先案内という仕事も終わりを告げることになりました。
この時から、作家マーク・トウェインの仕事が始まることになるのです。
この同じ年に、彼とオライオンは、ミズーリー州のセント・ジョーゼフからネバダ州のカーソン市まで、陸路を1,700マイル駅馬車に乗りました。
オライオンはネバダ州の地方長官に任命され、新しい職につくまでサムに同行を依頼していたのです。
サムはただちに辺境の鉱山町の粗野な生活に順応しましたが、ほどなく銀鉱の発掘熱にとりつかれました。
彼は1年間、この捕らえどころのないような金属を捜し求めて試掘しましたが、結局は失敗に終わりました。
しかしながら、すべてがむだに終わったわけではありません。
楽をして、ひともうけしようとねらっていた何か月かの間に、サムは、多くの採鉱者たちの見聞談を聞いて覚え、後にこれらを作品の中に生かすことができたからです。
彼は自分の鉱山地方での生活を描いた『耐乏生活』で、次のようなことを知ったと述べています。「自然な状態の金というのは、ただくすんでいて飾りになるような代物ではないことや、つまらない金属が、はでな光彩を放って無知な人々に称賛の気持ちを起こさせるものであることを知った。
しかし、ほかの世界でも同じことだが、私はいまだに金の値打ちのある人の真価を十分に理解できず、雲母のような値打ちしかない人を称賛したくなるのである。」"
ネバダの辺境における有力な新聞である、バージニア市の『テリトリアル・エンタープライズ』紙は、サムの辺境での生活のユーモラスで多彩なスケッチのいくつかを掲載しました。そして最後には、彼に編集者の仕事を提供してくれました。
彼は2年とたたないうちに、「ロッキー山脈以西のものおじしないユーモリスト」として、西部の辺境全域にその名を知られるようになりました。
しかし、彼とライバルの新聞の編集者が決闘によって見解の相違に決着をつけようとしたために、1864年の12月までに、バージニア市を強制的に立ち退かされることになりました。
マーク・トウェイン・・・彼は1863年からこのペン・ネームを用いたのですが・・・は、バージニア市から、まだゴールド・ラッシュの興奮からまだ冷めきっていないサンフランシスコの町へ行きました。
彼はここに滞在中、ある採鉱者の見聞談として『キャラべラス郡の名高き跳び蛙(がえる)』を出版しました。
この物語はたちまち成功を収めましたので、マーク・トウェインはアメリカ中に有名になりました。
1865年、トウェインはサンドイッチ諸島・・・当時はハワイのことをこう呼んでいました・・・に5か月滞在したのち本土に帰ってきて、自分が得た経験について公開公演旅行を始めました。
彼は一躍成功者の座に着いたのですが、1867年には、講演でかせいだ金で初めての海外旅行に出かけることができ、フランス、イタリア、スペイン、パレスチナなどを歴訪しました。
新聞に載った彼の旅行の記事は、後に改訂され『赤ゲット外遊記(1869年)』として出版されましたが、これは彼にとっては最初の重要な書物でした。
トウェインは旅行からもどるとまもなく、ニューヨークの裕福な実業家のひとり娘のオリビア・ラングドンと恋仲になりました。
1871年には、コネチカット州のハートフォードに移り住みましたが、ここにはトウェインが文学上の成功によって得た金で、10万ドルの邸宅を建てておいたのでした。
彼とオリビアはここに20年間住み、友人たちをもてなし、たびたびヨーロッパに旅行し、3人の娘の成長を見、家族そろって楽しい生活を送ったのでした。
トウェインが彼の2大傑作といわれる『トム・ソーヤーの冒険(1876年)』と『ハックルベリー・フィンの冒険(1884年)』を書いたのは、ハートフォードに住んでいた1871年から1891年の間の時期でした。
これらの小説は、トウェインの同じ時期のほかの作品-『海外徒歩旅行(1880年)』『王子と乞食(こじき)(1882年)』『ミシシッピー川の生活(1883年)』『アーサー王の宮廷のコネチカット・ヤンキー(1889年)』など-とともに、多くの批評家から、現代アメリカ文学の最初のページを飾るものと目されています。
アメリカ文学におけるトウェインの偉大な名声と重要性は、主として彼の最もポピュラーな2編の小説、『トム・ソーヤーの冒険』と『ハックルベリー・フィンの冒険』にかかっています。
『トム・ソーヤー』と『ハックルベリー・フィン』は、トウェインの新聞記事と同様、彼が観察しよく覚えておいて書きとめた、こまごまとした具体的な事実が至る所に見られます。
『ハックルベリー・フィン』は本質的には牧歌的な作品で、トウェインの少年時代のハンニバルの町の模様を描いてみせてくれますが、ハックとジムの物語には何か暗い連想があります。
彼らの目に映る世界は、平和と美の望ましい世界ではありません。
それは、少年または男が本来備えている善良さと大人の社会の不正との著しい相違を、ハックとジムが無邪気な心で浮き彫りにする恐怖と無慈悲と暴力と不正の世界です。
トウェインはこれらの2つの物語を、優しさとあこがれの気持ちをこめて物語っています。彼は、懐かしい昔の生活や昔の日々のことを語り、「過去のかすみの中から首を出した懐かしい顔、耳を傾けると聞こえてくる懐かしい足音、ぼくの手と手を取り合った懐かしい手、ぼくにあいさつのことばを投げかけてくれた懐かしい声……」のことを語っています。
こうして、トウェインの少年時代や青年時代の華やかなパノラマが展開されるのです。
トウェインの本はすべて過去の粘土でこしらえたもので、その多くは彼が主人公です。
『耐乏生活』と『ミシシッピー川の生活』はほとんど完全と言っていいほど自伝的な物語です。『赤ゲット外遊記』は、だまされやすいアメリカ人の旅行者を風刺したものです。『王子と乞食』は、トウェインの不正と無慈悲に対する嫌悪(けんお)を表しています。
トウェインは年を取るにつれて、しだいに彼の言う「忌まわしい人類」に落胆し、幻滅を感じるようになっていきました。彼のその後の作品-例えば、『間抜けのウィルソン(1894年)』や『不思議な見知らぬ人(彼の死後、1916年に出版された)』など-は彼のしだいにつのる苦悩を反映しています。
彼の最後の作品となった『不思議な見知らぬ人』は、人生はほんとうは夢にすぎないのだ、ということを暗示した寓(ぐう)意物語なのです。
トウェインは、作家として、講演者として、夫として、父親としての成功は収めたものの、事業の出資のことでは選択を誤り、55歳の時に危うく破産しそうになりました。
彼は1891年6月、手元に残った資金をかき集めてハートフォードを去り、生活費の安かったヨーロッパへ家族を連れて移り住みました。
その後は町から町へと転々と移り住み、ジプシーのような生活が続きましたが、借金を返すための金をかせごうとして、その後も筆をおかずに書きつづけ、講演にも出かけました。
しかし、彼の努力も実を結ぶことなく、1894年4月、彼は負債総額9万4千ドルで破産を宣言しました。
にもかかわらず、トウェインは中西部の道徳のおきてにそむかず、1898年までにすべての負債を返しましたが、この間の苦しかった4年という歳月には彼が健康を害したり、娘のスージーをなくしたりという二重三重の苦しみに耐えたのです。
トウェインの名声が絶頂に達したころ、彼と彼の家族は、自ら選んだ9年間の海外放浪の旅からアメリカへもどりました。
彼の人気は絶大なものでしたので数々の賞を受け、至る所から講演に招かれました。こうして、彼は20世紀にさしかかるころにはアメリカで最も有名な人物となり、世界中にもその名を知られるようになっていました。
しかし、この成功の喜びにも、1904年に妻を失い、5年後には末娘のジーンを失うという2つの家庭の不幸が暗い影を落とすことになりました。
トウェインはこの悲しみにもめげず、一見無尽蔵と思われる機知とユーモアで、相変わらずアメリカの大衆を喜ばせました。
例えば、70歳を迎えるにあたって次のように言っています。「70歳とはね!確かに年を取ったもんだ。
これは認めよう。だけど一向に実感がわかないんだ。」
1910年4月21日、74年前に彼の誕生を告げたハレー彗(すい)星が夜空をさっと横切った瞬間に、サミュエル・ラングホーン・クレメンスは息を引き取りました。
彼は死ぬ少し前にある友人にこう語っています。「ぼくは、1835年のハレー彗星とともにこの世に生を受けたんだ。
この彗星は、来年またやってくることになっている。ぼくはこの彗星とともに、この世を去るだろう。」
マーク・トウェインは、アメリカ文学の上に偉大な足跡を残しました。
彼が書いた書物や彼が語ってくれた物語は、今もなお全世界の数多くの人々を喜ばせてくれます。
彼の書いたものには、西部の風格があふれ、彼が人間性と民衆の生活の研究者として親しく知り、書きとめておいた多彩な生活に満ち満ちています。
彼が遺産として残してくれたものは、不屈の創造的精神に支えられ、失敗や悲劇的事件をがんばって乗り越えていった男が、われわれに与えてくれる激励です。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America