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Helen Keller(2) ヘレン・ケラー
Helen Keller ヘレン・ケラー
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
その日以来、アン・サリバン・・・後にジョン・メーシー夫人となりましたが・・・は、死ぬまでケラー嬢につき添っていました。
ヘレンにとって、彼女は終始「先生」という存在でしたし、生徒のほうも、すばらしい進歩を見せたのでした。
数週間とたたないうちに、ヘレンは百以上の単語の意味を覚えましたし、くる日もくる日も新しい単語を覚えていきました。
彼女は、あっというまに指文字をマスターしてしまったばかりでなく、ブライユ式そのほかの点字の形を覚えてしまいました。
しかし、彼女はこれだけでは満足しませんでした。彼女は、しゃべることを覚えようと決心したのです。
もとより、多くの音は彼女にとって発音することが困難でしたし、彼女の声は精彩を欠いて抑揚をつけることはできませんでしたが、彼女はアン・サリバンの助けを得てついに話す方法を獲得しました。
ヘレンは人とコミュニケートすることを覚えるにつれて、すぼらしい知性とまれにみる美しい心の持ち主であることがわかりましたが、これらの資質は一生涯向上を続けたのでした。
この驚くべき若い女性は大学へ進学しようと決心して、まずケンブリッジ女学院に入り、1900年にはマサチューセッツ州ケンブリッジのラドクリフ大学に進みましたが、彼女は4年後にこの大学を優等で卒業しました。
このような奇跡を可能にしたのは、アン・サリバンでした。彼女はどの講義にもヘレンのそばに座って、教授のことばを彼女の手に書き、自分の目が赤くはれあがるまで時間をかけてへレンに本を読んでやりました。
ケラー嬢は大学に在学中に、彼女の最初の本である『わが生い立ちの記』を書きました。
この本は50の言語に翻訳され、ブライユ式点字で文字をたどって読んだ盲人の人たちにも、また視力があってこの本を読むことのできる人たちにも、数知れぬほど多くの人々に感銘を与えました。
世界中の人々が、この本から初めてへレン・ケラーの不屈の精神を知るようになったのです。
その後も彼女は数多くの雑誌に記事を書き、10冊の本を書きました。
ケラー嬢は、目が見えず耳が聞こえないために外界から隔離されてはいましたが、知力と精神と能力においては決して孤立していませんでした。
彼女はこう言ったことがあります。「私自身はこれでも一人前の人間です。……
私は孤独の中で、読書をしたり、ものを考えたり、判断したり、教育を受けることもできました。だから、私にはもはや暗黒も静寂も存在しないのです。」
そして、ヘレン・ケラーはすべての点で、彼女には暗黒も静寂も存在しないことを立証したのです。
彼女はコンサートを楽しみました。彼女は音波を通して音楽を知覚することができましたし、固形物を通して震動を感じることができました。
彼女は、アン・サリバンに横に座って俳優のせりふを手に書いてもらって、劇を見るのが大好きでした。
彼女は、ブライユ式点字タイプライターで世界中から送られてくる手紙に返事を書きました。
ケラー嬢とアン・サリバンは、盲人を世話し教育するための基金を集めようとして、広く各地を旅行して回りました。
アンはヘレンと世界をつなぐ命綱でした。ですから、ヘレンはある時こう言ったことがあります。「もし彼女がいなくなったら、私は文字どおり盲目でつんぼになってしまうでしょう。」
アン・サリバンは少し前からしだいに健康を害していたのですが、1936年に世を去りました。
しかし、アン・サリバンのあとを引き継いでくれる人がいました。
スコットランドの若い女性でポリー・トンプソンという人が、何年か前から秘書としてケラー家の所帯に加わっていたのですが、彼女はそのうち家事全般を取りしきるようになり、ついには、ヘレンの親友となり腹心の友となっていたのです。
だから、ヘレン・ケラーは献身的な伴侶としてポリーと手を携えて、アメリカおよび全世界を旅行して回りました。
ケラー嬢は第二次世界大戦後は、大半の時間を病院の訪問に当てました。彼女はこうして、目が見えなくなった兵士たちや、爆撃に遭って視力を失った婦人や子どもたちに慰めと希望を与えたのです。
彼女と彼女の伴侶は、各国の王や大統領や首相から歓迎を受けました。
行く先々で、ヘレンは、盲人たちにもっと多くの援助の手が差し伸べられる必要があることや、彼らが社会の一員として参加できるように援助するための教育の機会を与える必要があることなどを、説いて回りました。
彼女はある国の文部大臣に、次のように話したことがあります。「一人の人間を孤独のままうっちゃっておいたのでは、世界の平和はいつまでたっても実現のおぼつかない夢にすぎないでしょう。
この非凡な女性に与えられた賞は数えきれないほど多いのですが、それらの中には、いろんな大学や政府から送られた名誉学位や特別の表彰などがありました。しかしケラー嬢にとって、これらの賞は他人を助けることの喜びに比べれば、たいして重要なことではなかったのです。
ケラー嬢は1964年に、アメリカの一般人が受ける賞としては最高の、大統領自由章の特別受賞者に選ばれました。
その翌年、彼女は世界の婦人10傑のトップに指名されました。
ヘレン・ケラーは、暗黒と静寂の中とはいえ、人生と学問に対する不滅の情熱をもって活動しましたので、「自分の内なるすべての感覚」を使っているのだという自覚を持つことができましたし、また、次のように言うこともできたのです。「喜びがなくては、成長も進歩もありません。
この世界において、喜びが重要な力を発揮するものであることを認識しない人は、人生の最も大事なものを失うことになるのです。
喜びは人生の浮き沈みに調和と意義を与える精神的な要素です。」
1960年、ケラー嬢はまたもや大きなものを失いました。ポリー・トンプソンが死んだのです。
ヘレンは、愛するアン・サリバンに死に別れた時のように深く悲しんで、友人の一人に次のような手紙を書いています。
「私の生涯の長い期間にわたって、盲人のための私の仕事を推進していくうえで協力してくれた2人の友・・・すなわち先生とポリー・・・を持つことができたことは、私にとってすぼらしい経験でした。
私はこのような特権を与えられたことを、かたじけなく思っています。」
1968年、彼女の死を知って、世界中で多くの人々が嘆き悲しみました。
ヘレン・ケラーに与えられた数多くの称賛のことばの中で、おそらくアメリカの作家マーリア・マネスのことばが、ケラー嬢の本質を最も端的に示しているでしょう。
マネス嬢はヘレンの容貌の上品さにふれて、次のように言っています。「それは愛情に満ちた顔です。
そして、この婦人の不思議な点は、彼女は会った人をことごとく・・・それが生涯の伴侶であろうと、初めて会った悩みをかかえた人であろうと・・・変貌させるのです。おそらくは、これほど多く、世界中の恵まれた人々や悩みを持った人々と知り合った人はいないでしょう。
どこへ行っても・・・この盲目でつんぼの婦人が行くところはどこでも・・・光が暗やみを満たし、高慢と嫌悪(けんお)は霧散し、友情が広がっていくのです。」
Reproduced by the courtesy of the Voice of America