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Helen Keller(1) ヘレン・ケラー
Helen Keller ヘレン・ケラー
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
音と光のない世界から。 ヘレン・ケラー:非凡な女性。
ヘレン・ケラーは、アメリカの最も有名な女性の一人です。
目も見えず、耳も聞こえなかったにもかかわらず、彼女の勇気と業績は称賛を受けていますが、彼女は盲人や聾唖(ろうあ)者たちの境遇改善の仕事に献身したことで、世界中に知られるようになりました。
彼女が1968年6月1日に世を去った時、『ワシントン・ポスト』紙は次のように書いています。「彼女の生涯はまことに現代の驚異です。88歳を目前にした彼女の死は、全世界にとって大きな損失です。」
へレン・ケラーは、1880年6月27日にアラバマ州タスカンビアで生まれました。
彼女は、生後19か月の間、すべての点で正常なかわいらしい幸せな赤ん坊でした。
彼女はまねるべき音が聞こえないために、しゃべることができませんでした。
ケラー嬢はこう書いています。「私は、今でもなんとなく、あの病気の時の困った思い出を覚えているような気がします。
私はとりわけ、私がいらだちと痛みに悩まされている目覚めていた時間に、私の母がどんなにやさしく私をあやそうとしてくれていたか覚えています。……
私は私を取り巻く音と光のない世界に慣れていき、やがてかつては違った世界にいたことも忘れてしまいました。」
へレンは7歳になるまでは、あとになって彼女が述べている「この世とは無関係のところ」で生活していました。
彼女は乱暴で、がんこで、時折急に手のつけられないような激しい興奮状態におそわれました。
彼女の中には、使われる見込みのない数々の能力が隠されていたのです。
ヘレンはかつて、私の誕生日は1880年6月27日ではなくて、私の生活の中にアン・サリバンが入ってきた1887年3月3日です、とよく言っていました。
サリバン嬢は、マサチューセッツ州のボストンにあったパーキンズ盲人協会からやってきたのです。
サリバン嬢はケラー家に着いて3日後に、友人たちにあてて、彼女が7歳のヘレンに会った時の模様を次のように書いています。
「私がステップに足をかけるかかけないうちに、彼女は恐ろしい勢いで突進してきました。あまりの力に、キャプテン・ケラーがもし私の後ろにいなかったら、私は後ろへはねとはされていたことでしょう。
彼女は手で私の顔やドレスやかばんを探りました。彼女は私の手からかばんを取り上げて、開けようとしました。」
このようにして師弟の関係が始まり、2人の友情は、50年近く後にアン・サリバンが死ぬまで続きました。
ケラー嬢は2人が初めて会った日を「魂の誕生日」として、いつもたいせつにし心に秘めていました。
ヘレンは、彼女をふびんに思う家族の人たちからかわいがられ、甘やかされていたため、すっかり怒りっぽくなっていて手のつけようのないことがしばしばでした。
アン・サリバンは、最大の問題はこの少女を、彼女の心を傷つけることなく、自制心のある従順な少女に育てることだと悟りました。
意志と意志との戦いが繰り広げられました。事実、時には、このむずかしい子どもと断固とした若い先生との間で、取っ組み合いになることもあったのです。
しかし、これは考えてみると、別に驚くようなことではないのです。なぜならば、それまでにヘレンを教育しようと試みた人もいなければ、彼女と意志を伝えあう手段を知っている人もいなかったからです。
アン・サリバンは、普通の先生ではありませんでした。彼女は、並外れた若い女性だったのです。
彼女は、ルイ・ブライユというフランス人が考案した点字、つまり、ブライユ式点字を習ったことがありました。
しかし、アンの視力は、何回もの手術の結果、ついに一部回復したのです。
しかしながら、この若い先生が教師として備えていた最大の資質は、ヘレンを救ってあげようという強い決意とあいまって、彼女がこの視力も聴力もない子どもに対して同情のある理解を持っていたことです。
サリバン嬢は、まずへレンに指文字つづり法という方法を用いて、いくつかの単語をつづらせることから教え始めました。
彼女はヘレンの手に文字を軽くたたいて、それからその単語が表すものを彼女の手に持たせるのでした。
ヘレンはこの時の経験を、次のように述べています。「私はたちまちこの指の遊びに興味を覚え、まねてみようとしました。
やっとのことでうまくつづれるようになると……私は階下の母のところへ駆けおりていき、手を掲げて人形のつづりをやって見せました。
私は、自分が単語のつづりをやっているんだ、ということも知りませんでしたし、そもそも、単語というものが存在することすら知りませんでした。
私はその後何日もかかって、この理解しがたい方法でたくさんの単語を覚えました。‥‥‥しかし、私の先生は、私にすべてのものに名前があることを飲み込ませるまでに、数週間の間私につきっきりでした。」
ある朝、彼女は先生と一緒に庭園を通り抜けて、井戸小屋まで歩いていきました。そこには、水をくみあげるポンプが置いてあったのです。
彼女はこの時の出来事を、次のように述べています。「私の先生が、私の手をポンプの口の下に持っていきました。
冷たい水の流れが勢いよく私の手の上にほとばしり出た時に、先生は私のもう一方の手に、初めはゆっくりと、そして次には素早く、水という単語をつづってみせました。
私はじっと立っていましたが、私の全神経は彼女の指の動きに注がれていました。
私は突然、忘れ去っていたようなもうろうとした意識を自覚しました-それは、わくわくするような思考力のよみがえりでした。こうして、私は初めてことばというものの神秘をいくらか知るようになったのです。
私はその時、w-a-t-e-rが、私の手の上を流れていた、すてきな冷たい何物かを意味するのだということを知ったのです。
あの生きたことばが、私の魂を目覚めさせ、魂に光と希望と喜びを与え、魂を解放してくれたのです。
もちろん、まだいろいろと障害はあったのですが、それらは、やがて時がたてばぬぐい去ることのできる障害でした。」
Reproduced by the courtesy of the Voice of America