※本文をクリック(タップ)するとその文章の音声を聴くことができます。
右上スイッチを「連続」にすると、その部分から終わりまで続けて聴くことができます。
※ "PlayBackRate" で再生速度を調節できます。
Herman Melville(2) ハーマン・メルビル
Herman Melville ハーマン・メルビル
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
この小説は、それまでのアメリカにはなかったものを生み出しました。
これは、いろいろなレベルで価値を見いだすことのできる作品です。
うわべは、捕鯨船の航海の物語・・・つまり、自己の天分を試そうとして、海に出るイシマエルという青年の航海、についての物語です。
彼の一番仲のよい相棒は、優しく親切なクイークエグという未開人で、ちょうどメルビル自身が、南太平洋の島々のいわゆる未開人と呼ばれる人たちを、愛するようになったのと同じように、彼はその未開人を愛するようになります。
中心人物は、船長のアハブで、彼は巨大な白鯨を捕まえようとして片足を失うのですが、彼はこの鯨をモビー・ディックと名づけるのです。
アハブは、自分を傷つけたこの鯨を必ず捕まえて殺してみせると断言していました。
ところが、これとは反対に、鯨のほうが勝利を収めるのです。鯨は船を難破させ、アハブを殺してしまいました。
乗組員もおぼれてしまい、イシマエルがただひとり生き残って、この物語を伝えることになるのです。
『白鯨』を、スリルに富んだ物語として読むことに満足していた読者もありました。
しかい、いろんな意味を暗示する寓(ぐう)意物語である、と主張する読者もいました。
イギリスのある有名な評論家は、この作品はいつの時代にも変わらない、人間と自然の力との相克を表している、と言っています。
また、ある人々はこの作品を、人間が捕らえようとしても常に人間の手から逃れていく、何かとてつもなく大きな、超自然的なものへの探索である、と考えました。
こういった人たちは、次のように断言しました。『白鯨』の教訓は、人間は生命の神秘を自らの掌中に収めようとしてはいけない。大事なのは、達成できないことを達成しようとすることよりも、むしろ冒険そのものである。
ルイス・マムフォードは、次のように書いています。この白鯨は、盲めっぽうで巨大な力を持ったものすごい、理性のない自然界の力を表したものであるのに対して、アハブのほうは、小さくて弱くはあるが、理性的な意志を備え、意志のない力に進んで挑戦しようとする、人間の意志を表したものである。
『白鯨』の表面とは別に、内面的に何が存在しているか、ということについては、読者の意見は分かれていますが、物語のダイナミックな展開は、だれもが称賛するところです。
彼の起伏に富んだ文体は、われわれに聖書の一節を思い起こさせます。登場人物が、自らの考えを述べることばの中には、シェイクスピアのような壮麗さが見られるものもあります。
メルビルの最も優れた詩は彼の詩集にはなく、むしろ『白鯨』の中に含まれていて、ここでは、散文は詩的であるばかりでなく、大方の詩よりも霊感に満ちています。
この詩的散文の好個の例として、『白鯨』の冒頭に近いところで、イシマエルとクイークエグが日曜日の朝、ニューイングランドの教会の礼拝に参列する個所をあげることができます。
この教会では、すべてのことが捕鯨と結びついています。
ここでは、何を見ても海を連想させるものばかりです。
牧師が立つ説教台は高いところに作られていて、船首のように見えます。
牧師はそこへ行くのに、海上で小舟から本船に乗り移る時に使うようなはしごを登っていくのです。
牧師は、聖書の物語によると、鯨に飲み込まれたと言われている、船乗りヨナの話をするのです。
身をもって味わったことのない者には、想像もつかない。
あたかもイルカ座の放つ光にでも乗ってきたかのように。
あの恐ろしかった時のことやあの歓喜に満ちた時のことを
このあと、散文と韻文の入り交じった、メルビル特有の奇妙な文体で書かれた、壮麗な文章が続くのです。
次に紹介するのは、例の牧師の話の、最後の結びに当たる部分です。
ああ、しかし、乗組員の皆さん。あらゆる苦難の右舷(うげん)には、確かな喜びがあります。その喜びは、苦難の深さより高いのです。
この世の高慢な神々や提督に逆らいながら、容赦のないがんこな自己を、常に押し立てている男にこそ、喜びはあるのです。
頼みにならないこの世の船が、自分の下へ沈んでいっても、自分のたくましい両腕で、自分を支えている男にこそ、喜びはあるのです。真理のためには、すべての罪を、たとえ元老や法官の衣の下から引き出した罪であろうとも、容赦なく死滅させ、焼き滅ぼし、粉粋してしまうような男にこそ、喜びはあるのです。
主なる神のほかには、いかなるおきても主人も認めず、ただ天国に対する愛国者である男にこそ、喜びが-最高の喜びがあるのです。
暴徒の群がる海原の大波が、寄ってたかって振り落とそうとしても、この時代を経ても確固として動かない竜骨から、振り落とすことのできないような男にこそ、喜びはあるのです。
死の床で息を引き取る間際に、次のようなことばをもらすことのできる人にこそ、永遠の喜びと快楽が与えられるのです。「おお、神よ!私は多くの場合、あなたのむちによって、あなたの存在を知ったのですが、滅びゆくものであれ、不滅のものであれ、私は今ここに死んでいきます。私は今ここに死んでいきます。
私は、私自身をこの世のものとか、私ひとりのものとすることよりも、あなたのものにするために努力を重ねてきたのです。
いや、しかし、こんなことはとるに足らないことです。私は永遠というようなものはあなたにゆだねることにしましょう。
なぜならば、人間が神より長生きするようなことがあったとすれば、それはもう人間ではなくなるということになるのではないでしょうか。」
メルビルは最初の2冊の本によって、すでに有名になっていました。
メルビルは『白鯨』によって、さらに名声を博したのですが、この作品は多くの読者を当惑させ、かつて喜ばせた読者に訴えかける力をなくしてしまったのです。
彼は、ほかにも十数冊の本を書きましたが、どれひとつとして成功しませんでした。
彼が読者の興味を捕らえ得なかったことは、彼にとって大きな障害となりました。というのは、彼の労作の最良の部分までも、かえりみられなくなったからです。
彼の死後何年もたって、彼の短編小説は珠玉の名作として評価され、25年間未刊のままだった短編小説『ビリー・バッド』は、イギリスの作曲家、ベンジャミン・ブリトンの音楽によって、感動的なオペラにしあげられたばかりでなく、多くの人の心を打つ劇や映画になったのです。
メルビルは、文筆業では生活していくことができませんでしたので、講演をして生計を立てたいと考えました。
しかし、この望みはむなしく、不成功の試みに終わったのです。
そこで、彼はアメリカ政府の役人として、国外で働く職を求めましたが、これもうまくいきませんでした。
長時間労働の割に給料は低かったのですが、メルビルはこの職に20年近くとどまっていました。
彼にはこれといった友人もなく、貧困と戦いながら、妻と2人の娘と一緒にひっそりと暮らしていました。
1891年9月28日に、72歳でこの世を去りました。
メルビルの死を知っていた人は、ほとんどいませんでした。
ある新聞は、彼のことを捕鯨に関する本を1、2冊書いた男として報じました。
もう一つの新聞記事の見出しには「往年の流行作家の死」と書かれていました。
今日では、メルビルは、アメリカ文学の草分けとして評価を受けています。
現代の人々は、彼の壮麗な力量と壮大な表現と真理への熱烈な愛情を認めています。
彼はかつて「真理には境界がない」と叫んだことがあります。
生前は不明の天才と考えられていた彼も、今日ではだれもが認める巨匠なのです。
Reproduced by the courtesy of the Voice of America