HOMEVOADISTINGUISHED AMERICAN SERIES

ホームVOAアメリカを創った人々

※本文をクリック(タップ)するとその文章の音声を聴くことができます。
  右上スイッチを「連続」にすると、その部分から終わりまで続けて聴くことができます。
で日本語訳を表示します。
※ "PlayBackRate" で再生速度を調節できます。

Elizabeth Blackwell(1) エリザベス・ブラックウェル


Elizabeth Blackwell エリザベス・ブラックウェル
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
エリザベス・ブラックウェル:最初の婦人科医。
1849年1月23日、ニューヨーク州にあるジェネバ大学医学部では、歴史に残る卒業式が行われました。
この小さな大学の卒業式は、普通なら、親しい友人や家族の人々にしか関心のないものです。
しかし、この時だけは、式の行われるホールは見物人で満員になりました。
卒業生が一人一人進み出て、卒業証書を受け取りました。
26人の青年がいましたが、群衆が見に来ていた人物は、一番最後に現れました。
その人というのは小柄な金髪の若い女性で、クラスでただひとりの女性でした。
彼女の名前はエリザべス・ブラックウェルといって、医学の学位を授与された第1号の女性だったのです。
彼女の卒業は、長い孤独な戦いの末に獲得されたものでした。
ブラックウェル博士は、原則的には事実勝利を博したのですが、彼女にとっては、女性に門戸を閉ざされていた職業に女性の地位を築くための戦いが、今始まったばかりだったのです。
エリザベス・ブラックウェルは、医者になることに興味があったわけでは決してありません。ただ、ほかの女性が医者になれるように道を開きたいと思って、医者になったのです。
彼女は先駆者としての役割を果たすには、うってつけの条件を備えていました。というのは、彼女の家庭は、社会改革に関心の強い家庭だったからです。
彼女の家族は1832年にイギリスからアメリカに移住し、オハイオ州のシンシナティに定住しました。
エリザべスの父親は実業家でしたが、自分の娘たちに、息子たちと同様のりっぱな教育を受けさせたいと思っていました。
そればかりではなく、娘たちも息子たちもともに、同じペースで同じ学科を学ばせてやりたいと思っていました。
ブラックウェル家の家は、しばしば当時の社会改革運動家の集まる場所になっていました。
ハリエット・ビーチャー・ストウとか、ウィリアム・ロイド・ギャリソンといった、アメリカ南部の奴隷制度廃止のために戦っていた指導者たちも、しばしば訪れました。
エリザべスの兄弟の一人は、有名な女性の婦人参政権論者であるルーシー・ストーンと結婚しましたし、もう一人は、女性で最初に牧師に任命されたアントワネット・ブラウンと結婚しました。
彼女の姉妹の一人は、大新聞の海外特派員になりました。
そんなわけで、ブラックウェル家の人々をよく知っている友人たちは、エリザベスの業績を聞いても、ただ次のように取りざたするだけでした。「さて、サミュエル・ブラックウェルの子どもだから、今度は何をやりだすんでしょうね。」
エリザベスの父親は、彼女が17歳の時に、妻と9人の子どもを残し、これという遺産も残さずに、突然この世を去りました。
年上の娘たちのりっぱな教育だけが資産でしたので、彼女たちは寄宿制の学校を開きました。
母親が家事を引き受け、エリザベスと2人の姉たちが教えました。
数年後、男の子たちが大きくなって仕事につくようになると、学校は閉鎖しました。
エリザべスは、生涯を教育にささげようかと考えたこともあったのですが、彼女は、教師という職業にはあまり興味を持っていませんでした。
家族の知人が、彼女に医学を勉強してみてはどうかと勧めたのは、ちょうどそのころのことでした。
エリザベスは自叙伝の中で、次のように述べています。「この友だちは痛みの激しい病気を患ったあげく、とうとう亡くなりました。それは難病だったために、治療には終始苦痛が伴いました。
その友だちが私にこう言ったのです。『あなたは勉強好きだし、健康にも恵まれていて、暇もあるんだから、医学を勉強しなさいよ。』」
エリザベスは科学には興味がなかったので、初めはこの考えを受け入れようとはしませんでした。
しかし、時がたつにつれて、医者になることに興味を覚え始めました。
ただ問題は、医者になるにはどこから手をつけたらいいのか、ということでした。
彼女は家族の知り合いで医者をしている多くの人たちに手紙を書いて、女性が医学を修めるにはどうしたらいいか、とたずねました。
どの返事も、「あなたの医者になりたいという考えは『貴重な考え』ですが、実現することはむりでしょう。」といったものでした。
エリザべスはがっかりするどころか、医学を勉強しようという決心をますます固めました。
「私はこう考えました。もし、ほんとうに貴重な考えであるのなら、これを実現する方法がないはずはない。
医学で学位を取るという考えは、しだいに精神的な苦しみの様相を呈し、この精神的な戦いに私は限りない魅力を感じたのです。」
彼女は、医学部に入学願書を出す前に、在学中およびその後のインターン期間中の出費をまかなうためのお金を、かせがなくてはなりませんでした。
彼女は、ある医者の家庭で家庭教師の仕事を見つけました。
彼女の雇い主は、彼女の大望に好感を持っていましたので、自分の医学書を自由に使うことを許してくれました。
エリザベス・ブラックウェルが医学部に入学願書を出したのは、彼女が26歳の時でした。
彼女は、まず12の医学部に手紙を出すことから始めましたが、返ってきたのはすべて断りの返事でした。
彼女は、さらに多くの医学部に手紙を書きました。
次から次へと、断りの返事が返ってきました。
多くの学校は、彼女に男に変装して、パリで医学を学ぶことを勧めました。
しかし、エリザベスは、そのような勧めに従う気にはなれませんでした。
彼女自身、道徳的改革運動に加わっていましたし、この運動も公然と「社会の支持」を得て、正義と常識を求めていく運動だったのです。
彼女の29回目の入学申込みであった、ジェネバ大学への願書は、奇妙な出来事のおかげで受け付けてもらうことができました。
家族の知人であった、フィラデルフィアの高名な医師が、ジェネバにエリザベスの推薦状を書いていました。
この医師の意に逆らうことを好まなかったジェネバ大学の医学部の学部長は、彼女の出願を断る責任を、学生に押しつけたのです。
彼は、学生たちに決定を下すように求めました。
これを冗談ととった学生たちは、学部長や教授陣を因らせてやろうと考え、ブラックウェル嬢の出願を受け付けるほうに賛成の票を投じたのです。
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
QRコード
スマホでも同じレイアウトで読むことができます。
主な掲載作品