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Elizabeth Blackwell(2) エリザベス・ブラックウェル


Elizabeth Blackwell エリザベス・ブラックウェル
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
2週間後に、エリザべスはジェネバに到着しました。
彼女の同級生の一人は、あとになって、彼女が授業に現れた最初の日の模様を、次のように書いています。
「ある朝、全く予期しないことが起こった。1人の婦人が、教授に伴われて講義室に入ってきたのである。彼女はきわめて小柄で、じみな服を着ており、恥ずかしそうには見えたが、顔には強固な意志を物語る表情が見られた。
彼女があの大混乱の中へ入ってきたことは、どの学生にとっても、まるできつねにつままれたような感じを与えた。
どの学生も自分の席に着き、水を打ったように静まりかえったのである。
なんの妨害もなく講義が行われたのは、この時が初めてである。まるで部屋の中にただひとりしかいないかのように、一言一言はっきりと聞き取ることができた。
その後、1人の婦人がいるだけで、無法者の一団のような学生が、紳士の集団となった変身は、一時的なものではないことがわかったのである。」
2年後、エリザベス・ブラックウェルは、ジェネバ大学医学部を首席で卒業しました。
彼女の偉業は広くアメリカの内外でかっさいを浴びました。
しかし、医師たちは、彼女の医学の学位を十分に評価することをためらいました。
彼女が医者としての訓練を受けるために必要な、インターンの機会を与えてくれる病院はどこにもありませんでした。
彼女は、またしても、ラ・マテルニテ病院でインターンの訓練を受けるために、パリへ行くことを勧められました。
ところが、エリザベスは外科医になりたかったのに、ラ・マテルニテ病院では、助産婦たちに与える訓練しか受けることができなかったのです。
しかし、ほかに方法がなかったので、彼女は行きました。
エリザベスのパリでの経験は貴重なものでしたが、結末は悲劇的なものでした。
パリに着いてまだ6か月しかたたないころに、彼女は小さな患者のー人から、悪性の眼病を移されたのです。
彼女は長患いの末、視力を失いました。
こうして、外科医になる望みは永久に閉ざされたのですが、医者としての職業を断念するにはいたりませんでした。
翌年、エリザベスはロンドンの聖バーソロミュー病院の見習い医師を志願し、許可されました。
彼女はここにいる間に、フローレンス・ナイチンゲールと知り合いましたが、ナイチンゲールは、医学における女性の地位向上を計るための、エリザベスの「道徳的改革運動」の支持者となりました。
この2人の女性は、当時の社会の問題や自分たちの将来の希望について、多くの時間を割いて語り合いました。
エリザべスは、公衆衛生が医学の究極の目標である、という啓蒙(けいもう)的な知識を持つにいたったのは、フローレンス・ナイチンゲールのおかげだと考えていました。
エリザベスは1851年にアメリカにもどり、ニューヨーク市で開業しました。
それは彼女が30歳の時のことでした。彼女はその当時のことを、次のように記しています。
「ニューヨークでの最初の7年間は、仕事のうえでいろいろと苦労の多い時代でした。
夏でも冬でも、外出から帰っても着替えることもできず、休みなく働きつづけました。
私はユニバーシティ・プレースにいい部屋を借りていたのですが、診察を受けにくる患者はごくわずかでした。
私には医者仲間の付き合いもなく、孤立した開業でしたし、世間も目新しさに不信をもっていました。
ときどき侮辱的な手紙が舞い込むこともありましたし、台所はいつも火の車で、私の悩みの種でした。」
フローレンス・ナイチンゲールの感化を受けていたエリザベスは、患者の来るのを待つかたわら、衛生学と性教育について、一連の公開講義をしました。
彼女は新生児の育児の習慣のある部分について批判をし、拘束からの女性の解放を唱導しました。
彼女は、次のように唱えたのです・・・女性は、家庭と出産に縛りつけられた生活を送るのをやめて、健康的な戸外の運動に参加し、結婚とは無関係に、職業につく機会を与えられなくてほならない。
彼女はまた、貧しい人々の住居の改善や、公園の増設や、公衆衛生に対する注意の喚起などが必要であると主張しました。
エリザベスの講義は、初めのうちはあまり好感をもって迎えられませんでしたが、やがてたいへんな評判となりました。
ともあれ、影響力をもったクエーカー派の家族たちは、彼女の考えは健全なものだと判断し、その結果、彼女の最初の患者となりました。
しかし、患者をもつようになったことで、たちまち、また新たな問題が起こりました。
医師は、患者を病院に入れる権利を持っていなければなりません。
しかし、ニューヨーク市の病院は、どこもこの特典をブラックウェル博士に認めようとしなかったのです。
そのために、彼女は自分で病院を開くことを決心しました。
現在も東15番街321番地に立っている、ニューヨーク婦人小児病院は、エリザベス・ブラックウェルが創立したものです。
この病院の前身は、移住者の住んでいた医療施設のない地域に建てられた、小さな診療所だったのです。
彼女はここで、健康と衛生についての自分の考えを実行に移しましたが、彼女の理論と医師としての彼女の人柄が、一般の人々からしだいに認められ、尊敬されるようになりました。
1853年、彼女はニューヨーク貧困婦人小児救済病院の設立計画を発表して、ニューヨークの実業家、作家、出版者、そのほかの有力な住民を驚かしました。
彼女は財政援助を申し出て、資金と病院の両方を手に入れることができました。
このほか、彼女は、そのころまでに2人の女医の支援を受けていました。一人は、外科医の資格を持った妹のエミリーで、もう一人は、マリー・ザークルースカ博士というポーランドの貴族の婦人で、エリザベスはかつてこの婦人とヨーロッパで会い、医学の勉強を続けるようにと励ましたことがありました。
1860年代初期、アメリカに南北戦争が起こると、クリミア戦争中のフローレンス・ナイチンゲールの仕事から示唆を受けたエリザべスは、看護婦養成の計画を実施しました。
戦争が終わると、医師の不足に対処するために、エリザベスは彼女のニューヨーク婦人小児病院の分身として、アメリカで最初の女子医科大学を設立しました。
病院のほうは今でも開かれていますが、医科大学のほうは、1899年に閉鎖されました。
そのころには、アメリカ中の医学部は、女子に対して門戸を開き始めていましたので、ブラックウェル博士の医科大学はもう必要ではなくなったのです。
1869年までには、エリザベス・ブラックウェルは、自分のアメリカでの仕事はもう終わったと考えていました。
彼女は有能な妹に病院を任せて、イギリスにおける婦人の地位の向上に力を貸すために、イギリスにもどりました。
その後30年間、彼女は講義をし、書物を書き、最後には女子のためのロンドン医科大学設立を促進しましたが、ここでは婦人科医学の教授として教べんを執りました。
しかし、ついに健康を害した彼女は、引退を余儀なくされ、イギリスのへースチングスの町で余生を過ごしました。
彼女は、89歳でこの世を去りました。
この驚嘆に値する女性の業績を、彼女を尊敬する多くの人々の中の一人のことばを借りて要約すると、次のように言うのが最も当を得ているでしょう。
「エリザべス・ブラックウェルは文字どおりの先駆者であって、すべての先駆者がそうであったように、気落ちした時でも、聞く耳は持っていても、人の忠告などに耳をかそうとはしないタイプの人物でした。」
 
Reproduced by the courtesy of the Voice of America
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