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Emily Dickinson(1) エミリー・ディキンソン
Emily Dickinson エミリー・ディキンソン
DISTINGUISHED AMERICAN SERIES
アメリカが生んだ、偉大な詩人の一人であるエミリー・ディキンソンは、生涯を生まれ故郷のニューイングランドで過ごしました。
彼女が1830年12月10日に生まれた、マサチューセッツ州アマストの生家は、大きな四角いれんが造りの家ですが、高い木立が多く、低木の生けがきで囲まれていて、これらにさえぎられているために、全貌を見ることはできません。
エミリー・ディキンソンは、若いころに少し旅行をした時のことを除いては、生まれ故郷の町を離れたことはありませんでした。
彼女は、外の世界をほとんど必要としなかったようです。つまり、彼女の孤独な生涯が、彼女の世界だったというわけです。
彼女はある時友人にあてた手紙の中で、こう言っています。「生きていくだけでも、とてもショッキングなことが多いので、ほかのことをする暇なんて、ほとんどないんです。」
彼女は人と付き合うよりも、自分の家の窓越しに、世界をながめることのほうが好きだったのです。
しかし、エミリー・ディキンソンは人との付き合いを、いつも避けてばかりいたわけではありません。
少女時代は快活で、頭の回転の速いほうでしたし、若いころに書いたものを見ると、生まれつきユーモアやジョークが好きだったことがわかります。
美人ではありませんでしたが、人と楽しく付き合うすべを心得た、魅力的な女性でした。
彼女の目は黒く、膚は透き通るような白さで、髪は赤茶色でした。
彼女はある手紙の中で、自分のことを次のように書いています。「私は……小柄で、ミソサザイみたいです。髪はくりのいがのように太く、目はお客がグラスに残したシェリーのようです」
友人の一人は次のように言っています。「彼女は変わっていました。
私は、エミリーほど魅力のある人に会ったことはありません。」
エミリー・ディキンソンは、25歳になったころから、人目を避けるようになりました。
妹のラビニアは、しばしば姉に代わって、アマストの人たちとの連絡役を務めました。
エミリーにもわずかながら友だちがいましたが、あまり会うことはありませんでした。
彼女は手紙を書いたり、短い詩を送ったりして、友だちと交信するほうが好きだったのです。
彼女は音楽が好きでしたが、演奏している部屋へは入ろうとしませんでした。
部屋の外の廊下でそっと聞いているほうが好きだったのです。
エミリーはアマスト・アカデミーと、アマストの近くにあったマウント・ホリオーク女子専門学校で教育を受けました。
彼女が住んでいたころのアマストは、小さくて整然とした町でした。
おもな宗教はカルビン主義で、人々は日曜日ごとに3回教会へ礼拝に出かけました。
エミリーの父親は弁護士をしていましたが、彼は町の有力者の一人で、家庭においても絶対の権威を持っていました。
彼には息子が1人と、娘がもう1人いましたが、中でも彼にとっては、エミリーが一番のお気に入りでした。
彼女は父親をとても尊敬していましたので、「父親のイメージ」から一歩もそれることはありませんでした。
エミリー・ディキンソンは、人と会うことを避けていたばかりでなく、自分の詩が公にされることも好みませんでした。
彼女は多くの詩を作りましたが、彼女の生前に出版されたのは、そのうちのわずかに7編にすぎませんでした。しかも、それらの詩の中には、彼女の許可を得ずに印刷されたものもあったのです。
彼女はラビニアに、自分が死んだら詩を焼き捨てるようにと頼んでいました。
彼女は、かつて次のように書いたことがあるのです。「出版は、精神のせり売りのようなものです。」
彼女の最も有名な詩の一つに、彼女がいかに世間から逃れ、人目を避けたがっていたかをよく表している詩があります。
じゃ、私たち2人は同じことなのね。だれにも言っちゃだめよ。
だれかさんになるなんて、ほんとにつまらないことだわ。
エミリー・ディキンソンは伝統的な詩の形式を受け継いではいますが、めったに4行を越えることのない詩形を組み合わせて、短詩形の制約を見事にこなしている場合が多いのです。
彼女の詩は簡潔で要領を得ていて、そこに作り出されたイメージは強烈です。
彼女の詩のすべてに見られるのは、彼女がこの世界をたいへん特異な見方で観察していたということです。
ウォルト・ホイットマンのように、彼女は決まりきったリズムを使いませんでしたし、しばしば変わった韻や考えを作り出すためには、文法も無視しました。
エミリー・ディキンソンの詩に盛られた思想的内容は、決して単純なものではありません。ユーモアや快活な考えや機知が、満ちあふれているのです。
彼女は結婚はしませんでしたが、自分では家庭教師と呼んでいた数人の男性と、友情を交わしました。
まず1人目の男性は、彼女の父親のところで勉強している、穏やかでまじめな法律の研究家のベンジャミン・F・ニュートンでした。
エミリーの言うところによると、どんな作家を読んだらいいかということや、本質的にりっぱであるとか美しいといって称賛すべきものは、どういうものなのかといったことなどを、彼女に教えてくれたのは、ニュートンだったのです。
彼はまた、彼女と同じように、目に見えないものに真実の姿を認めるたちでしたので、彼女に詩を書くことを勧めてくれたのも、彼だったのです。
エミリーの2人目の「家庭教師」は、彼女が1854年にフィラデルフィアを訪れた時に知り合ったチャールズ・ウォズワース師でした。
彼は、1860年、アマストに彼女を訪問したことがありますし、このほかにも1、2度彼女を訪れたことがあります。
しかし恋愛ざたにはなりませんでした。彼は結婚していたからです。それに、おそらくは、彼もエミリーが自分のことを、「この世で一番親愛な友」だと考えていようなどとは思ってもみなかったでしょう。
にもかかわらず、エミリーが詩人としての自覚を持ち、作詩法に関心を持つようになり、「恋愛」詩を書き始めたのは、1860年のことでした。
1862年、エミリーはウォズワース師がサンフランシスコへ引っ越したことを知ると、アマストの人たちとの付き合いを次第に避けるようになり、今までより多くの時間を、詩を書くことに当てるようになりました。
1862年に彼女は次のように書いています。「天国について私たちが知っているのは別離だけ、でも、地獄へ行くにも別離は必要なんです」
Reproduced by the courtesy of the Voice of America