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The Adventures of Sherlock Holmes シャーロック・ホームズの冒険

The Red-Headed League 赤毛組合 7

Sir Arthur Conan Doyle アーサー・コナン・ドイル
AOZORA BUNKO 青空文庫
こうして、我々は訪問客を部屋から送り出した。「さて、ワトソン。」ホームズは私に話しかけてきた。「今の、君はどう思うね?」
「さっぱりだ。」私は率直に答えた。
「たいへん……謎めいた仕事だな。」
「概して、」とホームズは切り出す。「奇想な事件ほど、解ける謎は多い。
ありふれて特徴のない犯罪が、真に我々を悩ませる。それはまさしく、ありふれた顔が見分けにくいのと同じだ。
しかし、この事件に関しては迅速に動かねばなるまい。」
「これから、どうする?」 と私が尋ねると、
ホームズはこう答えた。「煙草を吸おう。ちょうどパイプ三服分の問題だ。これから、五十分間は話しかけないでくれたまえ。」
ホームズは椅子に座ったまま身体を丸めた。足を抱え込み、やせたひざを鷲鼻《わしばな》の近くに持ってくる。目をつむって座る。黒いクレイ・パイプを怪鳥のくちばしのように口からつきだしたまま。
ホームズは眠りこけたのだ、と思った。自らもうとうとしだしたときであった。ホームズは突然、椅子から飛び起きた。どうやら結論が出たようで、パイプを炉棚の上に置いた。
「今日の午後、聖《セント》ジェイムズ・ホールでサラサーテの演奏がある。」とホームズは言い出した。
「どうだろう、ワトソン。診察の方は二、三時間休めるか?」
「今日は一日あいている。まったく暇な稼業だよ。」
「帽子をかぶって、来たまえ。
中心区《シティ》を通って行くつもりだから、途中で食事でも摂ろう。
見たところ、このプログラムにはドイツの曲が多い。イタリアやフランスのものより、ドイツの方が僕の趣味に合う。
ドイツの曲は心の内に向かう。僕も今、内に向かいたいんだ――さあ、行こうか。」
 我々は地下鉄でオルダーズゲイト駅まで行った。しばらく歩くと、サックス・コバーグ・スクエアに着いた。今朝、我々が聞いた奇妙な話の現場である。
みすぼらしく、息の詰まるような街で、すすけた煉瓦造りの二階建てがいくつも立っていた。その建物は小さな空き地の四方を囲んでいた。空き地には柵が張り巡らされ、中には雑草のような芝生としおれた月桂樹の茂みがあった。二種の植物は煙にまみれた不快な空気の中、ひたむきに生きようとしているようだ。
角の家に行くと、三つの金メッキした球と、褐色の板に白で『ジェイベス・ウィルソン』と書かれた看板があった。あの赤毛の依頼人が商売をしている店だ。
シャーロック・ホームズはその店先で足を止める。首を傾げ、店の全景を見据えた。眉は寄せられ、目の奥が光っているように見える。
その後、街をゆっくり歩き始めた。また我々が入ってきた角へ向かったかと思うと、家々を鋭く見つめながら引き返してくるのである。
最後にはあの質屋の店先に戻ってきた。ステッキで歩道を力強く二、三回叩いてから、店の戸口に近寄っていった。ノックをする。
すぐに扉が開けられて、頭の良さそうな男が出てきた。ヒゲはなく、つるつるしていた。男はお入りください、と我々を招いた。
「どうも。」ホームズは多少の謝罪を入れてから、「すまないが、ここからストランド通りへはどのように出たらよいのだろうか。」
「三つ目の角を右、四つ目の角を左だ。」店員は手短に答えると、扉を閉めた。
「頭の切れる男だ、あいつ。」戸口を離れ、我々は立ち去ろうとしていた。ホームズは話を続ける。
「私見だが、やつは抜け目のなさで、ロンドンでは四番目だ。大胆さにおいては三番目と言ってもいい。
やつと、多少のかかわりがあってね。」
 私は口を挟むことにした。「うむ。ウィルソン氏が雇った店員か。赤毛組合の謎に、一枚かんでいるにちがいない。
君があんな事を尋ねたのは、あいつの顔が見たかっただけなんだろう?」
「顔など問題ではない。」
「では何のために。」
「ズボンの膝だ。」
「で、どうだった。」
「予想通り。」
「歩道を叩いた理由は?」
「いいかい、博士。今は話す時間ではなく、観察の時間だ。
僕たちは敵地に乗り込んだ密偵《スパイ》。
サックス・コバーグ広場のことはあらかたわかった。
さて、この裏側の街を探索しよう。」
 サックス・コバーグ広場を離れ、角を曲がるとすぐその通りはあった。コバーグ広場と比べると、画の表裏ほどの差だった。
そこは、中心区の交通を北と西へ導く大動脈の一つである。
車道には、行きと帰りの馬車が長い車の流れを作っていた。歩道では、急ぐ歩行者の群が多く、真っ黒になっている。
信じがたいことだった。美しい店々や荘厳な事務所が一列に並んでいる。これが先ほどまでいた広場の背中合わせになっている。すたれ活気のなかった広場と裏通りなのだ。
「さてと。」ホームズは街角に立ち、通りをざっと見渡してみた。「ここの家々の配置を覚えておきたい。
趣味で、ロンドンの正確な知識を頭に入れておきたい。
ここはモーティマー商店、煙草屋、新聞の小売店、シティ&サバーバン銀行コバーグ支店、菜食料理店にマクファーレン馬車製作会社の倉庫。
で、ここから別の区画か。
さて、博士。僕たちの仕事は終わった。今度は気晴らしの時間だ。
サンドウィッチとコーヒー一杯で一息つこう。それからヴァイオリンの国へ行くのだ。そこは甘美と絶妙と調和のみがあふれている。そこへ行けば、赤毛の依頼者に難題をふっかけられて煩うこともなかろう。」
 我が友人は熱心な音楽愛好家だった。また自身も有能な演奏家であり、類い希な作曲家でもあった。
午後はずっと劇場の一階特等席に座っていた。大きな幸せに浸り、音楽に合わせ、その長く細い指を静かに揺り動かしていた。このときの静かな微笑やまどろんだまなざしは、獲物を追うときのホームズや、怜悧で容赦なく犯人を追いつめる探偵としてのホームズとは、似つかぬものに思われた。
時に私は考える。彼という特異な人間のうちには、この二種の気質が交互に現れるのではないか。百発百中の推理というのは、時折ホームズの心を支配する詩的で瞑想的な気分に対する反動ではなかろうか。
この気持ちの切り替わりが、ホームズをけだるさの極地から飽くなき活力へと導くのだ。そして、私がよく知るように、幾日も立て続けで肘掛椅子にゆったりもたれかかりながら、即興曲を作ったり古版本を読んだりしているときほど、ホームズが真に恐るべきときはない。
そして突然、追求欲が湧き起こって、あの見事な推理力が直感の高みまで昇りつめ、ついにホームズのやり方に疎《うと》い者でも、まるで仙人か何かのような知識を持っているのではないか、と不審の目で見るのである。
この日の午後も聖ジェイムズ・ホールで私は音楽に心酔しているホームズを見て、冒険の果てに捕らえられるべき犯人達にはやがて、凶事が舞い込むであろうと感じた。
 
Copyright (C) Sir Arthur Conan Doyle, Yu Okubo
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