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坊っちゃん 十一 Botchan Chapter XI (5)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
黒い帽子《ぼうし》を戴《いただ》いた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。
違っている。
おやおやと思った。そのうち帳場の時計が遠慮《えんりょ》なく十時を打った。
今夜もとうとう駄目らしい。
 世間は大分静かになった。
遊廓《ゆうかく》で鳴らす太鼓《たいこ》が手に取るように聞《きこ》える。
月が温泉《ゆ》の山の後《うしろ》からのっと顔を出した。
往来はあかるい。
すると、下《しも》の方から人声が聞えだした。
窓から首を出す訳には行かないから、姿を突《つ》き留める事は出来ないが、だんだん近づいて来る模様だ。
からんからんと駒下駄《こまげた》を引き擦《ず》る音がする。
眼を斜《なな》めにするとやっと二人の影法師《かげぼうし》が見えるくらいに近づいた。
「もう大丈夫《だいじょうぶ》ですね。邪魔《じゃま》ものは追っ払ったから」
正《まさ》しく野だの声である。
「強がるばかりで策がないから、仕様がない」
これは赤シャツだ。
「あの男もべらんめえに似ていますね。
あのべらんめえと来たら、勇み肌《はだ》の坊《ぼ》っちゃんだから愛嬌《あいきょう》がありますよ」
「増給がいやだの辞表を出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」
おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思う様打《ぶ》ちのめしてやろうと思ったが、やっとの事で辛防《しんぼう》した。
二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下を潜《くぐ》って、角屋の中へはいった。
「おい」
「おい」
「来たぜ」
「とうとう来た」
「これでようやく安心した」
「野だの畜生、おれの事を勇み肌の坊っちゃんだと抜《ぬ》かしやがった」
「邪魔物と云うのは、おれの事だぜ。失敬千万な」
 おれと山嵐は二人の帰路を要撃《ようげき》しなければならない。
しかし二人はいつ出てくるか見当がつかない。
山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかも知れないから、出られるようにしておいてくれと頼《たの》んで来た。
今思うと、よく宿のものが承知したものだ。
大抵《たいてい》なら泥棒《どろぼう》と間違えられるところだ。
 赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。
寝る訳には行かないし、始終障子の隙《すき》から睨めているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、
これほど難儀《なんぎ》な思いをした事はいまだにない。
いっその事角屋へ踏み込んで現場を取って抑《おさ》えようと発議《ほつぎ》したが、山嵐は一言にして、おれの申し出を斥《しりぞ》けた。
自分共が今時分飛び込んだって、乱暴者だと云って途中《とちゅう》で遮《さえぎ》られる。訳を話して面会を求めれば居ないと逃《に》げるか別室へ案内をする。
不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこに居るか分るものではない、
退屈でも出るのを待つより外に策はないと云うから、
ようやくの事でとうとう朝の五時まで我慢《がまん》した。
 角屋から出る二人の影を見るや否や、おれと山嵐はすぐあとを尾《つ》けた。
一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。
温泉《ゆ》の町をはずれると一丁ばかりの杉並木《すぎなみき》があって左右は田圃《たんぼ》になる。
それを通りこすとここかしこに藁葺《わらぶき》があって、畠《はたけ》の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。
町さえはずれれば、どこで追いついても構わないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕《つら》まえてやろうと、見えがくれについて来た。
町を外《はず》れると急に馳《か》け足《あし》の姿勢で、はやてのように後ろから、追いついた。
何が来たかと驚ろいて振《ふ》り向く奴を待てと云って肩に手をかけた。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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