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坊っちゃん 十一 Botchan Chapter XI (6)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
野だは狼狽《ろうばい》の気味で逃げ出そうという景色《けしき》だったから、おれが前へ廻って行手を塞《ふさ》いでしまった。
「教頭の職を持ってるものが何で角屋へ行って泊《とま》った」
と山嵐はすぐ詰《なじ》りかけた。
「教頭は角屋へ泊って悪《わ》るいという規則がありますか」
と赤シャツは依然《いぜん》として鄭寧《ていねい》な言葉を使ってる。
顔の色は少々蒼い。
「取締上《とりしまりじょう》不都合だから、蕎麦屋《そばや》や団子屋《だんごや》へさえはいってはいかんと、云うくらい謹直《きんちょく》な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」
野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ち塞がって
「べらんめえの坊っちゃんた何だ」と怒鳴り付けたら、
「いえ君の事を云ったんじゃないんです、全くないんです」
と鉄面皮に言訳がましい事をぬかした。
おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を握《にぎ》ってる。
追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ擲《たた》きつけた。
玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。
野だはよっぽど仰天《ぎょうてん》した者と見えて、わっと言いながら、尻持《しりもち》をついて、助けてくれと云った。
おれは食うために玉子は買ったが、打《ぶ》つけるために袂へ入れてる訳ではない。
ただ肝癪《かんしゃく》のあまりに、ついぶつけるともなしに打つけてしまったのだ。
しかし野だが尻持を突いたところを見て始めて、おれの成功した事に気がついたから、こん畜生《ちくしょう》、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲《たた》きつけたら、野だは顔中黄色になった。
 おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「芸者をつれて僕が宿屋へ泊ったと云う証拠《しょうこ》がありますか」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て云う事だ。胡魔化せるものか」
「胡魔化す必要はない。
僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知った事ではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨《げんこつ》を食わした。
赤シャツはよろよろしたが
「これは乱暴だ、狼藉《ろうぜき》である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりと撲《な》ぐる。
「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、答えないんだ」
しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、眼がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりゃ、まだ撲《なぐ》ってやる」
とぽかんぽかんと両人《ふたり》でなぐったら「もうたくさんだ」と云った。
野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「無論たくさんだ」と答えた。
「貴様等は奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。
これに懲《こ》りて以来つつしむがいい。
いくら言葉巧《たく》みに弁解が立っても正義は許さんぞ」
と山嵐が云ったら両人共《ふたりとも》だまっていた。
ことによると口をきくのが退儀《たいぎ》なのかも知れない。
「おれは逃げも隠《かく》れもせん。
今夜五時までは浜の港屋に居る。
用があるなら巡査《じゅんさ》なりなんなり、よこせ」と山嵐が云うから、
おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。
堀田と同じ所に待ってるから
警察へ訴《うった》えたければ、勝手に訴えろ」と云って、二人してすたすたあるき出した。
 おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。
部屋へはいるとすぐ荷作りを始めたら、婆さんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。
お婆さん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定を済まして、
すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。
おれは早速辞表を書こうと思ったが、何と書いていいか分らないから、私儀《わたくしぎ》都合有之《これあり》辞職の上東京へ帰り申候《もうしそろ》につき左様御承知被下度候《さようごしょうちくだされたくそろ》以上とかいて校長宛《あて》にして郵便で出した。
 汽船は夜六時の出帆《しゅっぱん》である。
山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで眼が覚めたら、午後二時であった。
下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。
「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人は大きに笑った。
 その夜おれと山嵐はこの不浄《ふじょう》な地を離《はな》れた。
船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。
神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆《しゃば》へ出たような気がした。
山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
 清《きよ》の事を話すのを忘れていた。
――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄《かばん》を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、
あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙《なみだ》をぽたぽたと落した。
おれもあまり嬉《うれ》しかったから、もう田舎《いなか》へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
 その後ある人の周旋《しゅうせん》で街鉄《がいてつ》の技手になった。
月給は二十五円で、家賃は六円だ。
清は玄関《げんかん》付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎《はいえん》に罹《かか》って死んでしまった。
死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋《う》めて下さい。
お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。
だから清の墓は小日向《こびなた》の養源寺にある。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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