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坊っちゃん 十一 Botchan Chapter XI (4)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶《あいさつ》をして浜《はま》の港屋まで下《さが》ったが、
人に知れないように引き返して、温泉《ゆ》の町の枡屋《ますや》の表二階へ潜《ひそ》んで、障子《しょうじ》へ穴をあけて覗《のぞ》き出した。
これを知ってるものはおればかりだろう。
赤シャツが忍《しの》んで来ればどうせ夜だ。しかも宵《よい》の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎに極《きま》ってる。
最初の二晩はおれも十一時頃《ごろ》まで張番《はりばん》をしたが、赤シャツの影《かげ》も見えない。
三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。
駄目を踏《ふ》んで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。
四五日《しごんち》すると、うちの婆さんが少々心配を始めて、奥《おく》さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。
そんな夜遊びとは夜遊びが違う。
こっちのは天に代って誅戮《ちゅうりく》を加える夜遊びだ。
とはいうものの一週間も通って、少しも験《げん》が見えないと、いやになるもんだ。
おれは性急《せっかち》な性分だから、熱心になると徹夜《てつや》でもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。
いかに天誅党でも飽《あ》きる事に変りはない。
六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。
そこへ行くと山嵐は頑固《がんこ》なものだ。
宵《よい》から十二時過《すぎ》までは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈《がすとう》の下を睨《にら》めっきりである。
おれが行くと今日は何人客があって、泊《とま》りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。
どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組《うでぐみ》をして溜息《ためいき》をつく。
可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯《しょうがい》天誅を加える事は出来ないのである。
 八日目には七時頃から下宿を出て、まずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵《けいらん》を八つ買った。
これは下宿の婆さんの芋責《いもぜめ》に応ずる策である。
その玉子を四つずつ左右の袂《たもと》へ入れて、例の赤手拭《あかてぬぐい》を肩《かた》へ乗せて、懐手《ふところで》をしながら、枡屋《ますや》の楷子段《はしごだん》を登って
山嵐の座敷《ざしき》の障子をあけると、おい有望有望と韋駄天《いだてん》のような顔は急に活気を呈《てい》した。
昨夜《ゆうべ》までは少し塞《ふさ》ぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭《いんきくさ》いと思ったくらいだが、
この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快《ゆかい》愉快と云った。
「今夜七時半頃あの小鈴《こすず》と云う芸者が角屋へはいった」
「赤シャツといっしょか」
「いいや」
「それじゃ駄目だ」
「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」
「どうして」
「どうしてって、ああ云う狡《ずる》い奴だから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかも知れない」
「そうかも知れない。もう九時だろう」
「今九時十二分ばかりだ」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら云ったが「おい洋燈《らんぷ》を消せ、
障子へ二つ坊主頭が写ってはおかしい。
狐《きつね》はすぐ疑ぐるから」
 おれは一貫張《いっかんばり》の机の上にあった置き洋燈《らんぷ》をふっと吹きけした。
星明りで障子だけは少々あかるい。
月はまだ出ていない。
おれと山嵐は一生懸命《いっしょうけんめい》に障子へ面《かお》をつけて、息を凝《こ》らしている。
チーンと九時半の柱時計が鳴った。
「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもう厭《いや》だぜ」
「おれは銭のつづく限りやるんだ」
「銭っていくらあるんだい」
「今日までで八日分五円六十銭払った。
いつ飛び出しても都合《つごう》のいいように毎晩勘定《かんじょう》するんだ」
「それは手廻しがいい。
「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
「その代り昼寝《ひるね》をするだろう」
「昼寝はするが、外出が出来ないんで窮屈《きゅうくつ》でたまらない」
これで天網恢々《てんもうかいかい》疎《そ》にして洩《も》らしちまったり、何かしちゃ、つまらないぜ」
「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」
と小声になったから、おれは思わずどきりとした。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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