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坊っちゃん 七 Botchan Chapter VII (6)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
門の並びに黒い暖簾《のれん》をかけた、小さな格子窓《こうしまど》の平屋はおれが団子を食って、しくじった所だ。
丸提灯《まるぢょうちん》に汁粉《しるこ》、お雑煮《ぞうに》とかいたのがぶらさがって、提灯の火が、軒端《のきば》に近い一本の柳の幹を照らしている。
食いたいなと思ったが我慢して通り過ぎた。
 食いたい団子の食えないのは情ない。
しかし自分の許嫁《いいなずけ》が他人に心を移したのは、なお情ないだろう。
うらなり君の事を思うと、団子は愚《おろ》か、三日ぐらい断食《だんじき》しても不平はこぼせない訳だ。
本当に人間ほどあてにならないものはない。
あの顔を見ると、どうしたって、そんな不人情な事をしそうには思えないんだが
――うつくしい人が不人情で、冬瓜《とうがん》の水膨《みずぶく》れのような古賀さんが善良な君子なのだから、油断が出来ない。
淡泊《たんぱく》だと思った山嵐は生徒を煽動《せんどう》したと云うし。生徒を煽動したのかと思うと、生徒の処分を校長に逼《せま》るし。
厭味《いやみ》で練りかためたような赤シャツが存外親切で、おれに余所《よそ》ながら注意をしてくれるかと思うと、マドンナを胡魔化《ごまか》したり、
胡魔化したのかと思うと、古賀の方が破談にならなければ結婚は望まないんだと云うし。
いか銀が難癖《なんくせ》をつけて、おれを追い出すかと思うと、すぐ野だ公が入《い》れ替《かわ》ったり
――どう考えてもあてにならない。
こんな事を清にかいてやったら定めて驚く事だろう。
箱根《はこね》の向うだから化物《ばけもの》が寄り合ってるんだと云うかも知れない。
 おれは、性来《しょうらい》構わない性分だから、どんな事でも苦にしないで今日まで凌いで来たのだが、
ここへ来てからまだ一ヶ月立つか、立たないうちに、急に世のなかを物騒《ぶっそう》に思い出した。
別段際だった大事件にも出逢わないのに、もう五つ六つ年を取ったような気がする。
早く切り上げて東京へ帰るのが一番よかろう。
などとそれからそれへ考えて、いつか石橋を渡《わた》って野芹川《のぜりがわ》の堤《どて》へ出た。
川と云うとえらそうだが実は一間ぐらいな、ちょろちょろした流れで、
土手に沿うて十二丁ほど下ると相生村《あいおいむら》へ出る。村には観音様《かんのんさま》がある。
 温泉《ゆ》の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。
太鼓《たいこ》が鳴るのは遊廓に相違ない。
川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水のようにやたらに光る。
ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向うに人影《ひとかげ》が見え出した。
月に透《す》かしてみると影は二つある。
温泉《ゆ》へ来て村へ帰る若い衆《しゅ》かも知れない。それにしては唄《うた》もうたわない。存外静かだ。
 だんだん歩いて行くと、おれの方が早足だと見えて、
二つの影法師が、次第に大きくなる。
一人は女らしい。
おれの足音を聞きつけて、十間ぐらいの距離《きょり》に逼った時、男がたちまち振り向いた。
月は後《うしろ》からさしている。
その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。
男と女はまた元の通りにあるき出した。
おれは考えがあるから、急に全速力で追っ懸《か》けた。
先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。
今は話し声も手に取るように聞える。
土手の幅は六尺ぐらいだから、並んで行けば三人がようやくだ。
おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の袖《そで》を擦《す》り抜《ぬ》けざま、二足前へ出した踵《くびす》をぐるりと返して男の顔を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
月は正面からおれの五分刈《がり》の頭から顋の辺《あた》りまで、会釈《えしゃく》もなく照《てら》す。
男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促《うな》がすが早いか、
温泉《ゆ》の町の方へ引き返した。
 赤シャツは図太くて胡魔化すつもりか、気が弱くて名乗り損《そく》なったのかしら。
ところが狭くて困ってるのは、おればかりではなかった。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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