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坊っちゃん 七 Botchan Chapter VII (5)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
色の白い、ハイカラ頭の、背の高い美人と、四十五六の奥さんとが並《なら》んで切符《きっぷ》を売る窓の前に立っている。
おれは美人の形容などが出来る男でないから何にも云えないが全く美人に相違ない。
何だか水晶《すいしょう》の珠《たま》を香水《こうすい》で暖《あっ》ためて、掌《てのひら》へ握《にぎ》ってみたような心持ちがした。
年寄の方が背は低い。しかし顔はよく似ているから親子だろう。
おれは、や、来たなと思う途端《とたん》に、うらなり君の事は全然《すっかり》忘れて、若い女の方ばかり見ていた。
すると、うらなり君が突然《とつぜん》おれの隣《となり》から、立ち上がって、そろそろ女の方へ歩き出したんで、少し驚いた。
マドンナじゃないかと思った。
三人は切符所の前で軽く挨拶している。遠いから何を云ってるのか分らない。
 停車場の時計を見るともう五分で発車だ。
早く汽車がくればいいがなと、話し相手が居なくなったので待ち遠しく思っていると、また一人あわてて場内へ馳《か》け込《こ》んで来たものがある。
見れば赤シャツだ。
何だかべらべら然たる着物へ縮緬《ちりめん》の帯をだらしなく巻き付けて、例の通り金鎖《きんぐさ》りをぶらつかしている。
あの金鎖りは贋物《にせもの》である。
赤シャツは誰《だれ》も知るまいと思って、見せびらかしているが、おれはちゃんと知ってる。
赤シャツは馳け込んだなり、何かきょろきょろしていたが、切符売下所《うりさげじょ》の前に話している三人へ慇懃《いんぎん》にお辞儀《じぎ》をして、何か二こと、三こと、云ったと思ったら、
急にこっちへ向いて、例のごとく猫足《ねこあし》にあるいて来て、
や君も湯ですか、僕は乗り後れやしないかと思って心配して急いで来たら、まだ三四分ある。
あの時計はたしかかしらんと、
自分の金側《きんがわ》を出して、二分ほどちがってると云いながら、おれの傍《そば》へ腰を卸《おろ》した。
女の方はちっとも見返らないで杖《つえ》の上に顋《あご》をのせて、正面ばかり眺《なが》めている。
年寄の婦人は時々赤シャツを見るが、若い方は横を向いたままである。
いよいよマドンナに違いない。
 やがて、ピューと汽笛《きてき》が鳴って、車がつく。待ち合せた連中はぞろぞろ吾《わ》れ勝《がち》に乗り込む。
赤シャツはいの一号に上等へ飛び込んだ。
上等へ乗ったって威張れるどころではない、
住田《すみた》まで上等が五銭で下等が三銭だから、わずか二銭違いで上下の区別がつく。こういうおれでさえ上等を奮発《ふんぱつ》して白切符を握《にぎ》ってるんでもわかる。
もっとも田舎者はけちだから、たった二銭の出入でもすこぶる苦になると見えて、大抵《たいてい》は下等へ乗る。
赤シャツのあとからマドンナとマドンナのお袋が上等へはいり込んだ。
うらなり君は活版で押《お》したように下等ばかりへ乗る男だ。
先生、下等の車室の入口へ立って、何だか躊躇《ちゅうちょ》の体《てい》であったが、おれの顔を見るや否や思いきって、飛び込んでしまった。
おれはこの時何となく気の毒でたまらなかったから、うらなり君のあとから、すぐ同じ車室へ乗り込んだ。
上等の切符で下等へ乗るに不都合はなかろう。
 温泉へ着いて、三階から、浴衣《ゆかた》のなりで湯壺《ゆつぼ》へ下りてみたら、またうらなり君に逢った。
おれは会議や何かでいざと極まると、咽喉《のど》が塞《ふさ》がって饒舌《しゃべ》れない男だが、平常《ふだん》は随分《ずいぶん》弁ずる方だから、いろいろ湯壺のなかでうらなり君に話しかけてみた。
何だか憐れぽくってたまらない。こんな時に一口でも先方の心を慰《なぐさ》めてやるのは、江戸《えど》っ子の義務だと思ってる。
ところがあいにくうらなり君の方では、うまい具合にこっちの調子に乗ってくれない。
何を云っても、えとかいえとかぎりで、しかもそのえといえが大分面倒《めんどう》らしいので、
しまいにはとうとう切り上げて、こっちからご免蒙《めんこうむ》った。
 湯の中では赤シャツに逢わなかった。
もっとも風呂《ふろ》の数はたくさんあるのだから、同じ汽車で着いても、同じ湯壺で逢うとは極まっていない。
別段不思議にも思わなかった。
町内の両側に柳《やなぎ》が植《うわ》って、柳の枝《えだ》が丸《ま》るい影を往来の中へ落《おと》している。
少し散歩でもしよう。
北へ登って町のはずれへ出ると、左に大きな門があって、
山門のなかに遊廓《ゆうかく》があるなんて、前代未聞の現象だ。
ちょっとはいってみたいが、また狸から会議の時にやられるかも知れないから、やめて素通りにした。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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