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坊っちゃん 七 Botchan Chapter VII (4)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
おれが椽鼻で清の手紙をひらつかせながら、考え込《こ》んでいると、しきりの襖《ふすま》をあけて、萩野のお婆さんが晩めしを持ってきた。
まだ見てお出《い》でるのかなもし。えっぽど長いお手紙じゃなもし、と云ったから、
ええ大事な手紙だから風に吹かしては見、吹かしては見るんだと、自分でも要領を得ない返事をして膳《ぜん》についた。
見ると今夜も薩摩芋《さつまいも》の煮《に》つけだ。
ここのうちは、いか銀よりも鄭寧《ていねい》で、親切で、しかも上品だが、惜《お》しい事に食い物がまずい。
おれは芋は大好きだと明言したには相違ないが、こう立てつづけに芋を食わされては命がつづかない。
うらなり君を笑うどころか、おれ自身が遠からぬうちに、芋のうらなり先生になっちまう。
清ならこんな時に、おれの好きな鮪《まぐろ》のさし身か、蒲鉾《かまぼこ》のつけ焼を食わせるんだが、貧乏《びんぼう》士族のけちん坊《ぼう》と来ちゃ仕方がない。
どう考えても清といっしょでなくっちあ駄目《だめ》だ。
もしあの学校に長くでも居る模様なら、東京から召《よ》び寄《よ》せてやろう。
天麩羅蕎麦《そば》を食っちゃならない、団子を食っちゃならない、それで下宿に居て芋ばかり食って黄色くなっていろなんて、
禅宗《ぜんしゅう》坊主だって、これよりは口に栄耀《えよう》をさせているだろう。
――おれは一皿の芋を平げて、机の抽斗《ひきだし》から生卵を二つ出して、茶碗《ちゃわん》の縁《ふち》でたたき割って、ようやく凌《しの》いだ。
生卵ででも営養をとらなくっちあ一週二十一時間の授業が出来るものか。
しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。
汽車にでも乗って出懸《でか》けようと、例の赤手拭《あかてぬぐい》をぶら下げて停車場《ていしゃば》まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。
ベンチへ腰を懸けて、敷島《しきしま》を吹かしていると、偶然《ぐうぜん》にもうらなり君がやって来た。
おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。
平常《ふだん》から天地の間に居候《いそうろう》をしているように、小さく構えているのがいかにも憐《あわ》れに見えたが、
出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日《あした》から結婚《けっこん》さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、
やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと威勢《いせい》よく席を譲《ゆず》ると、
うらなり君は恐《おそ》れ入った体裁で、いえ構《かも》うておくれなさるな、と遠慮《えんりょ》だか何だかやっぱり立ってる。
少し待たなくっちゃ出ません、草臥《くたび》れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。
実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。
それではお邪魔《じゃま》を致《いた》しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。
世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本《にっぽん》が困るだろうと云うような面を肩《かた》の上へ載《の》せてる奴もいる。そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。
教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの狸《たぬき》もいる。
皆々《みなみな》それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人《おとな》しくしているのは見た事がない。
顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡《なび》くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。
赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様《だんなさま》が出来るもんか。
「あなたはどっか悪いんじゃありませんか。大分たいぎそうに見えますが……」
「そりゃ結構です。からだが悪いと人間も駄目ですね」
「ええ瘠《や》せても病気はしません。病気なんてものあ大嫌いですから」
うらなり君は、おれの言葉を聞いてにやにやと笑った。
ところへ入口で若々しい女の笑声が聞《きこ》えたから、何心なく振《ふ》り返ってみるとえらい奴が来た。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY