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坊っちゃん 八 Botchan Chapter VIII (1)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
 赤シャツに勧められて釣《つり》に行った帰りから、山嵐《やまあらし》を疑ぐり出した。
無い事を種に下宿を出ろと云われた時は、いよいよ不埒《ふらち》な奴《やつ》だと思った。
ところが会議の席では案に相違《そうい》して滔々《とうとう》と生徒厳罰論《げんばつろん》を述べたから、おや変だなと首を捩《ひね》った。
萩野《はぎの》の婆《ばあ》さんから、山嵐が、うらなり君のために赤シャツと談判をしたと聞いた時は、それは感心だと手を拍《う》った。
この様子ではわる者は山嵐じゃあるまい、赤シャツの方が曲ってるんで、
好加減《いいかげん》な邪推《じゃすい》を実《まこと》しやかに、しかも遠廻《とおまわ》しに、おれの頭の中へ浸《し》み込《こ》ましたのではあるまいかと迷ってる矢先へ、
野芹川《のぜりがわ》の土手で、マドンナを連れて散歩なんかしている姿を見たから、それ以来赤シャツは曲者《くせもの》だと極《き》めてしまった。
曲者だか何だかよくは分《わか》らないが、ともかくも善《い》い男じゃない。
表と裏とは違《ちが》った男だ。
人間は竹のように真直《まっすぐ》でなくっちゃ頼《たの》もしくない。
真直なものは喧嘩《けんか》をしても心持ちがいい。
赤シャツのようなやさしいのと、親切なのと、高尚《こうしょう》なのと、琥珀《こはく》のパイプとを自慢《じまん》そうに見せびらかすのは油断が出来ない、めったに喧嘩も出来ないと思った。
喧嘩をしても、回向院《えこういん》の相撲《すもう》のような心持ちのいい喧嘩は出来ないと思った。
そうなると一銭五厘の出入《でいり》で控所《ひかえじょ》全体を驚《おど》ろかした議論の相手の山嵐の方がはるかに人間らしい。
会議の時に金壺眼《かなつぼまなこ》をぐりつかせて、おれを睨《にら》めた時は憎《にく》い奴だと思ったが、あとで考えると、それも赤シャツのねちねちした猫撫声《ねこなでごえ》よりはましだ。
実はあの会議が済んだあとで、よっぽど仲直りをしようかと思って、一こと二こと話しかけてみたが、野郎《やろう》返事もしないで、まだ眼《め》を剥《むく》ってみせたから、
こっちも腹が立ってそのままにしておいた。
 それ以来山嵐はおれと口を利かない。
机の上へ返した一銭五厘はいまだに机の上に乗っている。ほこりだらけになって乗っている。
おれは無論手が出せない、山嵐は決して持って帰らない。
この一銭五厘が二人の間の墻壁《しょうへき》になって、おれは話そうと思っても話せない、山嵐は頑《がん》として黙《だま》ってる。
おれと山嵐には一銭五厘が祟《たた》った。
しまいには学校へ出て一銭五厘を見るのが苦になった。
 山嵐とおれが絶交の姿となったに引き易《か》えて、赤シャツとおれは依然《いぜん》として在来の関係を保って、交際をつづけている。
野芹川で逢《あ》った翌日などは、学校へ出ると第一番におれの傍《そば》へ来て、君今度の下宿はいいですかの
またいっしょに露西亜《ロシア》文学を釣《つ》りに行こうじゃないかのといろいろな事を話しかけた。
おれは少々憎《にく》らしかったから、昨夜《ゆうべ》は二返逢いましたねと云《い》ったら、ええ停車場《ていしゃば》で
――君はいつでもあの時分出掛《でか》けるのですか、遅いじゃないかと云う。
野芹川の土手でもお目に懸《かか》りましたねと喰《く》らわしてやったら、いいえ僕《ぼく》はあっちへは行かない、
湯にはいって、すぐ帰ったと答えた。
何もそんなに隠《かく》さないでもよかろう、
現に逢ってるんだ。よく嘘《うそ》をつく男だ。
これで中学の教頭が勤まるなら、おれなんか大学総長がつとまる。
おれはこの時からいよいよ赤シャツを信用しなくなった。
信用しない赤シャツとは口をきいて、感心している山嵐とは話をしない。
世の中は随分妙《ずいぶんみょう》なものだ。
 ある日の事赤シャツがちょっと君に話があるから、僕のうちまで来てくれと云うから、惜《お》しいと思ったが温泉行きを欠勤して四時頃《ごろ》出掛けて行った。
赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔《むかし》に引き払《はら》って立派な玄関《げんかん》を構えている。
家賃は九円五拾銭《じっせん》だそうだ。
田舎《いなか》へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発《ふんぱつ》して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。
頼むと云ったら、赤シャツの弟が取次《とりつぎ》に出て来た。
この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。
その癖渡《くせわた》りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪《わ》るい。
 赤シャツに逢って
用事を聞いてみると、大将例の琥珀のパイプで、きな臭《くさ》い烟草《たばこ》をふかしながら、こんな事を云った。「君が来てくれてから、前任者の時代よりも成績《せいせき》がよくあがって、校長も大いにいい人を得たと喜んでいるので
――どうか学校でも信頼《しんらい》しているのだから、そのつもりで勉強していただきたい」
「へえ、そうですか、勉強って今より勉強は出来ませんが――」
「今のくらいで充分《じゅうぶん》です。
ただ先だってお話しした事ですね、あれを忘れずにいて下さればいいのです」
「下宿の世話なんかするものあ剣呑《けんのん》だという事ですか」
「そう露骨《ろこつ》に云うと、意味もない事になるが――まあ善いさ
――精神は君にもよく通じている事と思うから。
そこで君が今のように出精《しゅっせい》して下されば、学校の方でも、ちゃんと見ているんだから、もう少しして都合《つごう》さえつけば、待遇《たいぐう》の事も多少はどうにかなるだろうと思うんですがね」
「へえ、俸給《ほうきゅう》ですか。俸給なんかどうでもいいんですが、上がれば上がった方がいいですね」
「それで幸い今度転任者が一人出来るから――もっとも校長に相談してみないと無論受け合えない事だが――その俸給から少しは融通《ゆうずう》が出来るかも知れないから、それで都合をつけるように校長に話してみようと思うんですがね」
「どうも難有《ありがと》う。だれが転任するんですか」
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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