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坊っちゃん 八 Botchan Chapter VIII (2)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
「もう発表になるから話しても差し支《つか》えないでしょう。実は古賀君です」
「古賀さんは、だってここの人じゃありませんか」
「ここの地《じ》の人ですが、少し都合があって――半分は当人の希望です」
「どこへ行《ゆ》くんです」
「日向《ひゅうが》の延岡《のべおか》で
――土地が土地だから一級俸上《あが》って行く事になりました」
「誰《だれ》か代りが来るんですか」
「代りも大抵《たいてい》極まってるんです。その代りの具合で君の待遇上の都合もつくんです」
「はあ、結構です。しかし無理に上がらないでも構いません」
「とも角も僕は校長に話すつもりです。
それで校長も同意見らしいが、追っては君にもっと働いて頂《いた》だかなくってはならんようになるかも知れないから、どうか今からそのつもりで覚悟《かくご》をしてやってもらいたいですね」
「今より時間でも増すんですか」
「いいえ、時間は今より減るかも知れませんが――」
「時間が減って、もっと働くんですか、妙だな」
「ちょっと聞くと妙だが、――判然とは今言いにくいが――まあつまり、君にもっと重大な責任を持ってもらうかも知れないという意味なんです」
 おれには一向分らない。
今より重大な責任と云えば、数学の主任だろうが、主任は山嵐だから、やっこさんなかなか辞職する気遣《きづか》いはない。
それに、生徒の人望があるから転任や免職《めんしょく》は学校の得策であるまい。
赤シャツの談話はいつでも要領を得ない。
要領を得なくっても用事はこれで済んだ。
それから少し雑談をしているうちに、うらなり君の送別会をやる事や、ついてはおれが酒を飲むかと云う問や、うらなり先生は君子で愛すべき人だと云う事や――赤シャツはいろいろ弁じた。
しまいに話をかえて君俳句をやりますかと来たから、こいつは大変だと思って、俳句はやりません、さようならと、そこそこに帰って来た。
発句《ほっく》は芭蕉《ばしょう》か髪結床《かみいどこ》の親方のやるもんだ。
数学の先生が朝顔やに釣瓶《つるべ》をとられてたまるものか。
 帰ってうんと考え込んだ。
世間には随分気の知れない男が居る。
家屋敷はもちろん、勤める学校に不足のない故郷がいやになったからと云って、知らぬ他国へ苦労を求めに出る。
それも花の都の電車が通《かよ》ってる所なら、まだしもだが、日向の延岡とは何の事だ。
おれは船つきのいいここへ来てさえ、一ヶ月立たないうちにもう帰りたくなった。
延岡と云えば山の中も山の中も大変な山の中だ。
赤シャツの云うところによると船から上がって、一日《いちんち》馬車へ乗って、宮崎へ行って、宮崎からまた一日《いちんち》車へ乗らなくっては着けないそうだ。
名前を聞いてさえ、開けた所とは思えない。
猿《さる》と人とが半々に住んでるような気がする。
いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくもないだろうに、
何という物数奇《ものずき》だ。
 ところへあいかわらず婆《ばあ》さんが夕食《ゆうめし》を運んで出る。今日もまた芋《いも》ですかいと聞いてみたら、いえ今日はお豆腐《とうふ》ぞなもしと云った。
どっちにしたって似たものだ。
「お婆さん古賀さんは日向へ行くそうですね」
「ほん当にお気の毒じゃな、もし」
「お気の毒だって、好んで行くんなら仕方がないですね」
「好んで行くて、誰がぞなもし」
「誰がぞなもしって、当人がさ。古賀先生が物数奇に行くんじゃありませんか」
「そりゃあなた、大違いの勘五郎《かんごろう》ぞなもし」
「勘五郎かね。だって今赤シャツがそう云いましたぜ。
それが勘五郎なら赤シャツは嘘つきの法螺右衛門《ほらえもん》だ」
「教頭さんが、そうお云いるのはもっともじゃが、古賀さんのお往《い》きともないのももっともぞなもし」
「そんなら両方もっともなんですね。お婆さんは公平でいい。一体どういう訳なんですい」
「今朝古賀のお母さんが見えて、だんだん訳をお話したがなもし」
「どんな訳をお話したんです」
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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