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坊っちゃん 八 Botchan Chapter VIII (3)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
「あそこもお父さんがお亡くなりてから、あたし達が思うほど暮《くら》し向《むき》が豊かになうてお困りじゃけれ、お母さんが校長さんにお頼みて、もう四年も勤めているものじゃけれ、どうぞ毎月頂くものを、今少しふやしておくれんかてて、あなた」
「校長さんが、ようまあ考えてみとこうとお云いたげな。それでお母さんも安心して、今に増給のご沙汰《さた》があろぞ、
今月か来月かと首を長くして待っておいでたところへ、
校長さんがちょっと来てくれと古賀さんにお云いるけれ、行ってみると、気の毒だが学校は金が足りんけれ、月給を上げる訳にゆかん。
しかし延岡になら空いた口があって、そっちなら毎月五円余分にとれるから、お望み通りでよかろうと思うて、その手続きにしたから行くがええと云われたげな。――」
「さよよ。古賀さんはよそへ行って月給が増すより、元のままでもええから、ここに居《お》りたい。屋敷もあるし、母もあるからとお頼みたけれども、
もうそう極めたあとで、古賀さんの代りは出来ているけれ仕方がないと校長がお云いたげな」
「へん人を馬鹿《ばか》にしてら、面白《おもしろ》くもない。
じゃ古賀さんは行く気はないんですね。どうれで変だと思った。
五円ぐらい上がったって、あんな山の中へ猿のお相手をしに行く唐変木《とうへんぼく》はまずないからね」
「何でもいいでさあ、――全く赤シャツの作略《さりゃく》だね。
よくない仕打《しうち》だ。まるで欺撃《だましうち》ですね。
それでおれの月給を上げるなんて、不都合《ふつごう》な事があるものか。
「上げてやるって云うから、断《こと》わろうと思うんです」
「何でもお断わりだ。お婆さん、あの赤シャツは馬鹿ですぜ。卑怯《ひきょう》でさあ」
「卑怯でもあんた、月給を上げておくれたら、大人《おとな》しく頂いておく方が得ぞなもし。
若いうちはよく腹の立つものじゃが、年をとってから考えると、も少しの我慢《がまん》じゃあったのに惜しい事をした。腹立てたためにこないな損をしたと悔《くや》むのが当り前じゃけれ、
お婆の言う事をきいて、赤シャツさんが月給をあげてやろとお言いたら、難有《ありがと》うと受けておおきなさいや」
「年寄《としより》の癖に余計な世話を焼かなくってもいい。おれの月給は上がろうと下がろうとおれの月給だ」
爺《じい》さんは呑気《のんき》な声を出して謡《うたい》をうたってる。
謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。
あんな者を毎晩飽《あ》きずに唸《うな》る爺さんの気が知れない。
月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、
転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前を跳《は》ねるなんて不人情な事が出来るものか。
当人がもとの通りでいいと云うのに延岡下《くんだ》りまで落ちさせるとは一体どう云う了見《りょうけん》だろう。
太宰権帥《だざいごんのそつ》でさえ博多《はかた》近辺で落ちついたものだ。河合又五郎《かあいまたごろう》だって相良《さがら》でとまってるじゃないか。
とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
小倉《こくら》の袴《はかま》をつけてまた出掛けた。
大きな玄関へ突《つ》っ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。おれの顔を見てまた来たかという眼付《めつき》をした。
よる夜なかだって叩《たた》き起《おこ》さないとは限らない。
教頭の所へご機嫌伺《きげんうかが》いにくるようなおれと見損《みそくな》ってるか。
すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったら奥《おく》へ引き込んだ。
足元を見ると、畳付《たたみつ》きの薄っぺらな、のめりの駒下駄《こまげた》がある。奥でもう万歳《ばんざい》ですよと云う声が聞《きこ》える。
野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿《は》くものはない。
しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、
いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と云って、
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY