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坊っちゃん 八 Botchan Chapter VIII (4)
夏目漱石 Soseki Natsume
青空文庫 AOZORA BUNKO
赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔を眺《なが》めたが、とっさの場合返事をしかねて茫然《ぼうぜん》としている。
増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審《ふしん》に思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、呆《あき》れ返ったのか、または双方合併《そうほうがっぺい》したのか、妙な口をして突っ立ったままである。
「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっ母《か》さんから聞いたのを今日僕に話したのです」
あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、
そういう意味に解釈して差支《さしつか》えないでしょうか」
おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。
妙な所へこだわって、ねちねち押《お》し寄せてくる。
おれはよく親父《おやじ》から貴様はそそっかしくて駄目《だめ》だ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。
婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢って詳《くわ》しい事情は聞いてみなかったのだ。
だからこう文学士流に斬《き》り付けられると、ちょっと受け留めにくい。
正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心の中《うち》で申し渡してしまった。
下宿の婆さんもけちん坊《ぼう》の欲張り屋に相違ないが、嘘は吐《つ》かない女だ、
赤シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう答えた。
「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙《めんこうむ》ります」
今君がわざわざお出《いで》になったのは増俸を受けるには忍《しの》びない、理由を見出したからのように聞えたが、
その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「そんなに否《いや》なら強いてとまでは云いませんが、
そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変《ひょうへん》しちゃ、将来君の信用にかかわる」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を削《けず》って得たものではないでしょう。
その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余《じょうよ》を君に廻《ま》わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。
古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束《やくそく》で安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合《つごう》のいい事はないと思うですがね。
いやなら否《いや》でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」
おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙《こうみょう》な弁舌を揮《ふる》えば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたと恐《おそ》れ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。
ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。
途中《とちゅう》で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、
それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭《いや》になっている。
だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞《たくまし》くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。
議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。
表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚《ほ》れさせる訳には行かない。
金や威力《いりょく》や理屈《りくつ》で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査《じゅんさ》でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。
中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。
人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY