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坊っちゃん 九 Botchan Chapter IX (3)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
床の真中に大きな懸物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。
どうも下手《へた》なものだ。あんまり不味《まず》いから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々《れいれい》と懸けておくんですと尋《たず》ねたところ、
先生はあれは海屋《かいおく》といって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。
 やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、
柱があって靠《よ》りかかるのに都合のいい所へ坐《すわ》った。
海屋の懸物の前に狸《たぬき》が羽織《はおり》、袴《はかま》で着席すると、
左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取《じんど》った。右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で控《ひか》えている。
おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈《きゅうくつ》だったから、すぐ胡坐《あぐら》をかいた。
隣《とな》りの体操《たいそう》教師は黒ずぼんで、ちゃんとかしこまっている。
体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。
やがてお膳《ぜん》が出る。徳利《とくり》が並《なら》ぶ。
幹事が立って、一言《いちごん》開会の辞を述べる。
それから狸が立つ。赤シャツが起《た》つ。
ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴《ふいちょう》して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、
ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから致《いた》し方《かた》がないという意味を述べた。
こんな嘘《うそ》をついて送別会を開いて、それでちっとも恥《はず》かしいとも思っていない。
ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。
この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。
しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに極《きま》ってる。
マドンナも大方この手で引掛《ひっか》けたんだろう。
赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側《むかいがわ》に坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光《いなびかり》をさした。
おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。
 赤シャツが座に復するのを待ちかねて、山嵐がぬっと立ち上がったから、おれは嬉《うれ》しかったので、思わず手をぱちぱちと拍《う》った。
すると狸を始め一同がことごとくおれの方を見たには少々困った。
山嵐は何を云うかと思うとただ今校長始めことに教頭は古賀君の転任を非常に残念がられたが、
私は少々反対で古賀君が一日《いちじつ》も早く当地を去られるのを希望しております。
延岡は僻遠《へきえん》の地で、当地に比べたら物質上の不便はあるだろう。が、聞くところによれば風俗のすこぶる淳朴《じゅんぼく》な所で、職員生徒ことごとく上代樸直《じょうだいぼくちょく》の気風を帯びているそうである。
心にもないお世辞を振《ふ》り蒔《ま》いたり、美しい顔をして君子を陥《おとしい》れたりするハイカラ野郎は一人もないと信ずるからして、
君のごとき温良篤厚《とっこう》の士は必ずその地方一般の歓迎《かんげい》を受けられるに相違《そうい》ない。
吾輩《わがはい》は大いに古賀君のためにこの転任を祝するのである。
終りに臨んで君が延岡に赴任《ふにん》されたら、その地の淑女《しゅくじょ》にして、君子の好逑《こうきゅう》となるべき資格あるものを択《えら》んで一日《いちじつ》も早く円満なる家庭をかたち作って、かの不貞無節なるお転婆《てんば》を事実の上において慚死《ざんし》せしめん事を希望します。えへんえへん
と二つばかり大きな咳払《せきばら》いをして席に着いた。
おれは今度も手を叩《たた》こうと思ったが、またみんながおれの面《かお》を見るといやだから、やめにしておいた。
山嵐が坐ると今度はうらなり先生が起った。先生はご鄭寧《ていねい》に、自席から、座敷の端《はし》の末座まで行って、慇懃《いんぎん》に一同に挨拶《あいさつ》をした上、
今般は一身上の都合で九州へ参る事になりましたについて、諸先生方が小生のためにこの盛大《せいだい》なる送別会をお開き下さったのは、まことに感銘《かんめい》の至りに堪《た》えぬ次第で――
ことにただ今は校長、教頭その他諸君の送別の辞を頂戴《ちょうだい》して、大いに難有《ありがた》く服膺《ふくよう》する訳であります。
私はこれから遠方へ参りますが、なにとぞ従前の通りお見捨てなくご愛顧《あいこ》のほどを願います。
とへえつく張って席に戻《もど》った。
うらなり君はどこまで人が好いんだか、ほとんど底が知れない。
自分がこんなに馬鹿にされている校長や、教頭に恭《うやうや》しくお礼を云っている。
それも義理一遍《いっぺん》の挨拶ならだが、あの様子や、あの言葉つきや、あの顔つきから云うと、心《しん》から感謝しているらしい。
こんな聖人に真面目にお礼を云われたら、気の毒になって、赤面しそうなものだが狸も赤シャツも真面目に謹聴《きんちょう》しているばかりだ。
 挨拶が済んだら、あちらでもチュー、こちらでもチュー、という音がする。おれも真似をして汁《しる》を飲んでみたがまずいもんだ。
口取《くちとり》に蒲鉾《かまぼこ》はついてるが、どす黒くて竹輪の出来損《できそこ》ないである。
刺身《さしみ》も並んでるが、厚くって鮪《まぐろ》の切り身を生で食うと同じ事だ。
それでも隣《とな》り近所の連中はむしゃむしゃ旨《うま》そうに食っている。
大方江戸前の料理を食った事がないんだろう。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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