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坊っちゃん 九 Botchan Chapter IX (4)

夏目漱石 Soseki Natsume

青空文庫 AOZORA BUNKO
 そのうち燗徳利《かんどくり》が頻繁《ひんぱん》に往来し始めたら、四方が急に賑《にぎ》やかになった。
野だ公は恭しく校長の前へ出て盃《さかずき》を頂いてる。
いやな奴だ。うらなり君は順々に献酬《けんしゅう》をして、一巡周《いちじゅんめぐ》るつもりとみえる。
はなはだご苦労である。
うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンのままかしこまって、一盃《ぱい》差し上げた。
せっかく参って、すぐお別れになるのは残念ですね。
ご出立《しゅったつ》はいつです、是非浜までお見送りをしましょうと云ったら、
うらなり君はいえご用多《おお》のところ決してそれには及《およ》びませんと答えた。
うらなり君が何と云ったって、おれは学校を休んで送る気でいる。
 それから一時間ほどするうちに席上は大分乱れて来る。
まあ一杯《ぱい》、おや僕が飲めと云うのに……
などと呂律《ろれつ》の巡《まわ》りかねるのも一人二人《ひとりふたり》出来て来た。
少々退屈《たいくつ》したから便所へ行って、昔風な庭を星明りにすかして眺《なが》めていると山嵐が来た。
どうださっきの演説はうまかったろう。と大分得意である。
大賛成だが一ヶ所気に入らないと抗議《こうぎ》を申し込んだら、
どこが不賛成だと聞いた。
「美しい顔をして人を陥れるようなハイカラ野郎は延岡に居《お》らないから……と君は云ったろう」
「うん」
「ハイカラ野郎だけでは不足だよ」
「じゃ何と云うんだ」
「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被《ねこっかぶ》りの、香具師《やし》の、モモンガーの、岡っ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云うがいい」
「おれには、そう舌は廻らない。
君は能弁だ。第一単語を大変たくさん知ってる。
それで演舌《えんぜつ》が出来ないのは不思議だ」
「なにこれは喧嘩《けんか》のときに使おうと思って、用心のために取っておく言葉さ。
演舌となっちゃ、こうは出ない」
「そうかな、しかしぺらぺら出るぜ。もう一遍やって見たまえ」
「何遍でもやるさいいか。――ハイカラ野郎のペテン師の、イカサマ師の……」
と云いかけていると、椽側《えんがわ》をどたばた云わして、二人ばかり、よろよろしながら馳《か》け出して来た。
「両君そりゃひどい、――逃げるなんて、
――僕が居るうちは決して逃《にが》さない、さあのみたまえ。
――いかさま師?――面白い、いかさま面白い。――さあ飲みたまえ」
とおれと山嵐をぐいぐい引っ張って行く。
実はこの両人共便所に来たのだが、酔《よ》ってるもんだから、便所へはいるのを忘れて、おれ等を引っ張るのだろう。
酔っ払いは目の中《あた》る所へ用事を拵えて、前の事はすぐ忘れてしまうんだろう。
「さあ、諸君、いかさま師を引っ張って来た。
さあ飲ましてくれたまえ。いかさま師をうんと云うほど、酔わしてくれたまえ。君逃げちゃいかん」
と逃げもせぬ、おれを壁際《かべぎわ》へ圧《お》し付けた。
諸方を見廻してみると、膳の上に満足な肴の乗っているのは一つもない。
自分の分を奇麗《きれい》に食い尽《つく》して、五六間先へ遠征《えんせい》に出た奴もいる。
校長はいつ帰ったか姿が見えない。
 ところへお座敷はこちら? と芸者が三四人はいって来た。
おれも少し驚《おど》ろいたが、壁際へ圧し付けられているんだから、じっとしてただ見ていた。
すると今まで床柱《とこばしら》へもたれて例の琥珀《こはく》のパイプを自慢《じまん》そうに啣《くわ》えていた、赤シャツが急に起《た》って、座敷を出にかかった。
向《むこ》うからはいって来た芸者の一人が、行き違いながら、笑って挨拶をした。
その一人は一番若くて一番奇麗な奴だ。
遠くで聞《きこ》えなかったが、おや今晩はぐらい云ったらしい。
赤シャツは知らん顔をして出て行ったぎり、顔を出さなかった。
大方校長のあとを追懸《おいか》けて帰ったんだろう。
 
Copyright (C) Soseki Natsume, Yasotaro Morri, J. R. KENNEDY
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